今回は少し嫌なこともお話しないといけないかも知れません。
事件が風化する前に書いておくべきだとは思うからです。
「やはり」というか、「当然」と言うか、怪しいと言われていた話題の「紀州ドンファン怪死事件」、その妻が薬物による夫の殺害容疑で逮捕されました。
この事件は、、「紀州のドンファン」と呼ばれた男性の不審な死が発端でした。
逮捕後、寄り添ってくれない妻に失望した資産家男性から離婚を切り出され、多額の収入のアテがなくなることに焦った妻がネットで殺害を計画、実行した疑いが持たれています。
ネットで検索して覚せい剤を調達、殺害したという証拠があったということです。
彼女は、あらかじめ飼い犬を使ってその効果の実験さえしていたということです。
そして誰もいないところを狙って覚せい剤を飲ませ殺害したと、事件の概要はようやく明らかになっています。
この事件は長らく、謎につつまれた怪死事件でした。
ですが、妻の逮捕によってようやく全貌が明らかになろうとしているところです。
薬物中毒になって危篤状態に陥っても、周囲に誰もいなければ救命措置は取れません。
この妻は家政婦を人払いし、二人きりになろうとしていますから、この殺害が事実だとすれば、確実に殺害することを狙った計画的な凶行だったと言えます。
それにしてもこの事件ですが、もともと多くの疑問がありました。
このドンファンという資産家の人物像からしてこの出逢いには不思議なものがあったからです。
いったい、いくら資産家といえど、どうして、またどういういきさつで、70代の男性がわずか20代の女性と知り合ったというのか。
よほどのご縁がなければ「結婚」と言うことは考えられないものでした。
しかも、男性は自称百戦錬磨のプレイボーイだったというのですから、どうしてこのような女性と関わってしまい、結婚まですることになったかという疑問です。
つまりこの結婚は、そもそもの出逢いの段階から間違っていた可能性があります。
資産家の男性は、自伝のようなものを出版して、その女性遍歴を誇示までしていました。
そのために、男性は今回の縁を疑うことさえ出来ないほど自信過剰になっていたのでしょうか。
そうして、思った結婚でなかったとすぐに気が付いたのか、男性は離婚を切り出したことになります。
しかし、協議離婚となったとしても、いくらかの慰謝料は払われたはずです。男性は多額の資産がある人でしたから、妻が夫を殺害するまでとなるとその動機が分かりません。
そうすると、この妻は不義なり不倫なり、慰謝料が一切払われないような離婚理由があったことが伺われます。
そうなれば女性にはビタ一文支払われないことが考えられます。
殺害にまで及んだ理由は彼女なりにあったはずです。
それとも、妻はもっと多額の金銭を求めるあまり、ひたすら凶行に流されていったのでしょうか。
ここ十年ぐらい、女性が男性の資産や保険金を狙って殺害するという事件が目立ちます。
きっと男性側はうんざりさせられていることでしょう。
これで女性への不審がつのってしまうだけなら、それはそれで不幸なことです。
そうして警戒心ばかり強まり、自然な出逢いを逃してしまったり、結局は孤独な暮らしになるしかなかったり。
結局、みんな、出逢う相手はお金が目的ではないか、そうして疑心暗鬼になり、孤独の道を選ぶようになってしまうのでしょうか。
しかし人間は一人では生きられないものです。
寂しさは魂を消耗させます。
魂が枯れ、これまで経験したことのない絶望に襲われます。
どんなに強い人物でも、「寂しさ」というものは時に気が狂いそうなほどに忌まわしいものです。
私たちは支えを必要とします。
コロナ感染が拡大している今でも、人々は会食を楽しみ、お喋りをしようとしていることからもそれは明らかでしょう。
割り切って人生一人暮らしを満喫できるかというと、それができる人はごくわずかです。
たいていの人々にはその生活は虚しいものがあるかも知れません。
結局、「この出逢いの何がいけなかったのか」、ということになります。
それはまず、「知人の紹介で出会った」というところにあります。
誰かの紹介で出会うということには多大なリスクがあります。まずそれに気付くべきでした。
どんな親しい友人であろうと、それが親戚関係ですら、間接的にその紹介する人物について責任を持てるわけなどないからです。
紹介した側にしても、結局はご自分で判断することだと考えているはずです。
しかし、紹介された当事者からすればそこは違ってきます。
義理もありますし、支えてくれる人に報いたい気持ちも生まれます。親しい友人や知人の紹介となると判断が狂うことが多いのです。
親しい友人からの紹介ということでバイアスがかかり、相手を過大評価してしまうということがあります。
あるいは「相性」についてもそうです。
親しい人から紹介されたことで、不用意に納得してしまう。自分と相手には確かなマッチングができているなどと、間違った自信を持ってしまうことになります。
そうして今回のように、相手の方は資産だけが目当てのような歪んだ付き合いが始まることになります。
こういうニュースが続き、それに触れると、誰しも警戒が強まるものです。
しかし、それでも知人や友人からの紹介となると、つい疑うことを忘れてしまうものです。
もちろん、相手に対して猜疑心などがあってはいい出逢いができないというのは当然のことですが、友人・知人の介在でバイアスがかかることは判断を狂わせます。
純粋な相性、人間的な惹かれ合い。
そんな純粋な動機でのお付き合いというのは理想です。
しかし年齢を重ねれば、そんなことはなかなか叶うものではありません。
だから、そもそも熟年離婚など実に愚かなことなのです。
もし今のパートナーに不満があったとしても簡単に破綻させるべきではないのです。
それだけの重ねられてきた年月の重さがあるからです。
そしてもっと言えば、そんな熟年離婚を経た人とのマッチングというのはとても難しいことでしょう。
こちらも熟年であれば、また投げ出すような人とのお付き合いをする時間は残ってはいません。
一般的に離婚歴の多い熟年同士の婚活というのは難しいのです。
となれば、では、熟年からの婚活、再スタートをしようとするのであればどうしたらよいのでしょうか。
資産があったり子供がいたり、自分以外の要素がある場合にはどうしても相手が確実な人であるか、その見極めが必要になってきます。
そこに多少の打算や計算高さは入らざるを得ません。
もう若くはないのです。
パートナーとして適当であるかどうか、相手をよく調べるということが必要になってきます。
これはあまり気持ちが良い話ではないかもしれませんが必要なことです。
そこはお互い、「事務的な手続き」のようにして乗り越えるしかありません。
例えば、「こういう手順を踏めと言われているので・・・失礼だけど申し訳ありません」というような具合です。
そんな風に、あらかじめ断って、自分がしたいわけでなく、会計士や税理士、色んな方面から言われている常識的な手順からすることなのだと説明すればいいのです。
本当のことを言ってしまえば、人間の出逢いなど、お互い、いくつにになっても前提などない方がいい、だとすれば資産など何もない方がいいのでしょう。
大昔、それこそ江戸や明治には熟年の再婚には何の苦労もありませんでした。
彼らは何も持たなかったからです。
著名な文豪にしても歴史上の人物にしても、死別した後に晩年に再婚したり、昔の人たちは熟年になっても問題なく再婚を果たしています。
しかし今は色んなことが豊かになりました。
そして欲望も計り知れません。
それは不幸なことなのです。
何もないところで二人が結びつく、それが言えるのは若者の特権となりました。
熟年となればそうはゆきません。
熟年で一人でいれば、多くの友人や知人が助けの手を差し伸べてくれようとします。
その無償の、見返りを求めない気軽な善意が「友人・知人による紹介」というものです。
しかしそれは結果として判断を誤らせます。
友人・知人による紹介だからこそ、ご本人はその判断を甘くしてしまう。
しかし一方で、彼らは何も自分で判断して欲しくないなどと思っているわけではないはずです。
何もご友人は出逢いを押し付けているわけではないのです。
そこに期待と善意のギャップというものがあります。
人間として、オープンで公正で誠実な態度というものはあるでしょう。
しかし、歳を重ねれば若いときとは新たな人間関係を作ることは異なるものになります。
それはお互い、持つものを持っている関係である以上、資産関係にバランスが取れているか、これから築き上げる関係に歪みはないかどうか、それを検証するということでしかないのです。
そうした計算や打算を避けるべきではありません。むしろそれが誠意であると考えるべきなのだと思います。
結局、今回の事件の本質とは、お互いに驕りがあったということなのかも知れません。
ドンファンの妻の方も、若さにあぐらをかいて、資産家の夫から無尽蔵に信頼が得られると思っていたのかも知れません。それが殺人という凶行につながってしまった。
そして資産家もまた、自分の資産のために無尽蔵に若い妻から愛情が得られると信じ込んでいた。
まだ裁判にはなっていませんし、ここでの推察はあくまで憶測に過ぎませんが、よく熟慮した「条件交渉」をせずに始まった結婚だったのかも知れません。
そのため、お互いに不幸な結果になってしまったというのが私の推察です。
人間がこうした凶行を起してしまうことには必ずなんらかの理由があるでしょう。
それがたとえ、妻の女性に暗く邪悪なものがあったのだとしても、わざわざそのような外れた道を選ぼうとする人はあまりいないものです。
考えてみれば、「条件交渉」なんて、そんな話になればたいていの人は臆してしまうものです。
どちらも条件を明確にできず、言い出せず、消極的になってしまうかも知れません。
しかし、海の向こうのアメリカでは意外とそういうことは平然と、事務的にやられているということは誰でも知っていることでしょう。
熟年ともなればそうした異質な文化での態度を見習ってもいいのかも知れません。
しかも、そういうお互いに冷静であるという段階を乗り越えられるからこそ、熟年であっても幸福なパートナー関係を築くことが出来るのだと思います。
お互いに若くはないのです。
相手の誠意や実直さを試したりする年齢ではもうないはずです。
そしてむしろ、そうしたハードルがあることを考えれば、婚活もまたいつまでもチャレンジに値するものであり、価値のあることだと思えるのではないでしょうか。
破れたり失望したり、新たな発見があったり、そんな出逢いは人生のよい刺激になってくれるはずです。
いつもそうして、人は前に進んでいくことができます。
「良い婚活」というのは、そういうチャレンジでもあるはずなのです。