女性にとっての永遠
女性にとって「永遠」とはごく普通の感覚です。
ほとんどの女性は永遠ということを何の引っ掛かりもなく理解できているはずです。
それがどんなものか女性は本能的に分かっています。
ではその永遠というものがどんなものか、ここで男性の私には説明はできません。
女性の中にそうした感覚があるということは分かります。それを男性は覚えておくべきです。
男性とは違って、女性には理解できない尺度でもなければ概念でもありません。
女性は永遠ということを感覚的によく理解しているものです。
しかし男性は苦手です。
「永遠の苦しみ」なんて言ったら男性は笑ってしまうでしょう。
そんな表現をされてしまえば「何を大袈裟な話だ」と反射的に思ってしまいます。これが男性の本音です。
男性にとっては永遠というのは修辞のための言葉ぐらいでしかないのです。
「永遠のように思える」とか、そんな決まりセリフでしかありません。
「永遠の愛」なんてことを結婚式では誓ったりするものです。
しかし、たいていの男性、新郎には実はピンときてないのです。
「誓い」というぐらいだから、きっと絶対に浮気はダメとかそういうことだろう、妻を大事にしろとかそうした誓いなのだ。
男性ならせいぜいそんなことを考えるぐらいです。
その程度の感覚ですからそのうち、黙ってりゃ分からんだろう、なんていって結局ツマみ食いをしてしまったりするわけです。
浮気をしてしまい離婚沙汰になってしまったりするわけです。
あの誓いは何だったのか、そうした非難をされれば男性は言い訳をするものです。「だってしょうがなかったんだ。」などと。
結婚する時、「浮気は決してしない」なんて約束はあまりしないものです。
だから代わりに永遠の愛を誓うのでしょうか。
違うと思います。
結婚式で「永遠の愛を誓う」ことの本質とは、裏切ったら許さないとか、そういう話ではないのです。
それはその場所において、神父の立会いのもとで二人の愛を永遠とするということです。
そうなればもう破ってはいけません。壊してはならないということです。
なぜならそれは永遠のものだからです。
でもその永遠が分からないと心もとない。男性にはその理解がよく出来ません。
そうして浮気してしまったとして、たとえ妻が許してくれたとしても、許してくれたのはタマタマに過ぎません。
相手の一線に触れなかった、たまたま越えなかったというだけです。
だから次があるかは分かりません。
女性の生理的な感情に法則性など見ようとしてはいけないのです。
女性の気持ちは男性には理解しにくいものです。
永遠を巡るスレ違い
そもそも男性は「永遠の愛」ということを分かっていません。
分かってないのに分かったフリをしてる。調子を合わせている。
これがイケません。
女性とすれば許せないことです。だから様々な軋轢を産むのです。
「永遠の美しさ」、それさえ女性は求めるものです。
「そんなものあるはずがないじゃないか」、男性ならそんな風に考えることでしょう。
しかし女性ならどんなにお婆ちゃんになっても「美しい」と言われないといけないのです。
それこそ女性として永遠に美しいと言われなくてはいけないのです。
それではこの永遠とは一体、女性にとっては何なのでしょうか。
それは絶対の価値です。
女性には生理的にこれが分かります。女性にとってはごく身近な感覚なのです。
「永遠に続く道」、なんて言葉はたとえ比喩にしても男性には聞くだけでも耐えられません。
想像するだけでおかしくなりそうです。
考えることも出来ないと思うからです。
だから永遠ということの価値など考えようもできません。
しかし女性の方はずっと愛して、永遠に愛して、永遠に可愛がって、なんて要求がサラリとクチから出てくるものです。
ずっとずっと愛して。
男性はこの気持ちが分からないのでせいぜいこういう言葉には曖昧に裏返事するぐらいです。
「ああ。分かってるよ。」それが関の山です。
男性はそれが分かりません。しかしそれが「愛」なのだと男性は思うべきなのです。
なにしろ「愛」というものを男性は本当に知っているでしょうか。言葉だけではなく、それを感じているでしょうか。
私は少なくとも自信はありません。
女性にとっての愛とは永遠の愛ということです。男性には分からなくても彼女たちにはそういう感覚があるということです。
女性には分かっています。
では男性は女性の感覚に任せればいいのではないか。身を委ねればいいのです。
男性は永遠を理解できないが女性には分かる。
男性はこのことをよく覚えておくおくことです。
あんまり男女のスレ違いを拗らせないようにしたいものです。
永遠は母性から
女性にはその母性ゆえに永遠ということが分かるものなのです。
それは人類によって連綿と続けられてきた遺伝子の継承、子孫繁栄の営みです。
太古からつながっていること。有史以前からのそれを考えれば私たちの存在は永遠と言ってもよいものです。
人生50年なんて昔は言われたものでした。そうすると単純化すると40人の行列で西暦2000年が埋まってしまうということになります。
これは次の世代に順番にバトンを渡していったとして並ぶ行列です。
今は人生100年はあるでしょうか。すると僅か20人の行列です。
人気のお店ならもっと行列は長いでしょう。
つまり私たちの歴史など問題にならないぐらい遠く長い時間の中で私たち人類は子孫を継承してきたということです。
それが今という現在です。
西暦などたかだか記録に残るようになった歴史に過ぎません。
しかし古代から人類は次の世代に継承してきました。だからこそ私たちは今を生きています。それは永遠とも思える長い時間です。
「産む」ということはそれです。
女性はその母性を通じて永遠とつながっているのです。
男性はその種というだけです。
生理もありませんから男性には産むということはピンときません。
男性には産むことの実感はありません。
なにがなにやら分からない。
だからこそ現代では出産の現場では夫の立会いなどとやって色々と工夫しているのです。
しかし男性はお腹の中に赤ん坊を抱えるということを知りません。どんなに工夫したところで当事者として産むことを知ることはできないのです。
その違いは否定すべくもありません。否定してもしょうがない。まず男性と女性との違いを認めることです。
こういうところ、男性には分からないものだということ、その差があるということを理解するようにすればもっと男女のギャップはもっと埋まるものかも知れません。
「知らないを知る」ということです。
それが理解できればきっと男女の衝突は少なくなるでしょう。
わざわざ知ろうとしても意味がないのです。どうしても分からないのですから。
相手に任せるべきものは任せ、お互いにやるべきことに集中できる。
男女の役割分担です。
こういう男女の役割分担みたいなことを言うと女性差別だ、そんな風にむやみに指弾しようとすることは歪んだものがあります。
男女には歴然とした差がある。その感覚にも差があるのです。
社会的にも男性と女性に差はあります。
それをわざわざ克服すべき理由はどこにもありません。
勝手にそんなことを言っている人たちがいますがなぜ男女の差を克服すべきか、どんな問題があるかをきちんと説明できる人はいません。
ただのプロパガンダでしかありません。
耳を傾ける必要はない。
こういう男女差、すなわちジェンダーを否定しようという言い方は、自分だけが得をしようとしたり人に言うことを聞かせるためのトリックなのです。
あるいはつまらない言い訳、醜いだけの嫉妬、コジツケの鬱憤晴らしに過ぎません。
相手にしてはいけない。
女性はこんな言い方をされて自分の中にある母性が否定されないよう注意すべきです。
母性があるから永遠ということが分かるのですから。
でないと自分の中の永遠を失うことになります。
永遠の美しさ、永遠の愛、理屈抜きの自分を失わないようにしないといけません。
女性は永遠を自然に求めることができるのです。その資格があります。
邪悪なプロパガンダで女性の母性を否定されないようしないといけません。
永遠とは絶対
永遠というのは本能的、あるいは生理的な感覚です。
それは時間の長さではありません。
それは言い換えれば絶対ということです。だから時間も空間も越えたものです。
それは価値なのですから言い換えれば永遠とは絶対ということです。
他に代え難いものとも言い替えることができます。
交換が出来ない。
代用が効きません。
こうして永遠という言葉を言い換えたとしても合理的で論理的な男性の思考からすればとても理解はできないでしょう。
考えれば考えるほど本質から逸れてしまうはずです。
理屈ではないのです。
もし、この絶対の価値が壊れてしまったと感じると女性は後戻りできなくなるものです。
離婚などの選択を女性がする時はそうしたものです。
永遠の愛が壊れてしまったと感じた時です。
そうなれば女性の決意は揺るぎません。
よほどの努力と労力を傾けても修復はほとんど不可能です。
元に戻ることはできなくなります。
永遠であるはずのものが壊れてしまったとすれば、女性にとってはもはや捨てるしかありません。
絶対のものがそうでなくなってしまったら価値はもはやないのです。
なぜ女性が永遠ということにそれほど頑固なのか、それは永遠とは絶対ということだからです。母性は絶対だからです。自分自身だからです。
絶対のものは傷さえついてはいけません。
壊れたり傷がつけばゼロ、無です。
逆に言えば本来は傷などつきようなどないものです。
永遠の愛や永遠の美しさ、永遠の想い出は傷がつかない。
ずっと可愛がってね
喩えとして一番分かりやすいのは「可愛がれ」という女性からの要求です。
女性はこれを男性に求めます。
「ずっと可愛がってね」という言葉は女性がしばしば使う言葉です。
そして男性がしばしば戸惑う言葉です。
それなのに女性は飽きてしまったとか、古くなってしまったとか、突然に可愛がっていたヌイグルミをあっさり捨ててしまったりもします。
反対に何度も直して大事に、ずっと持ってたりもします。
男性にはその境界が分かりません。
やはりこれも絶対の価値とその崩壊ということなのです。
永遠であるはずのヌイグルミとの絆が壊れてしまえばどんなに可愛がってたとしても捨てるしかないのです。
逆に壊れなければどんな努力も惜しまず大事にする。どんなに古くなってもヌイグルミを大事にします。
男性にはこの機微が分かりません。
あれだけ可愛がっていたヌイグルミなのです。その思い出、残滓のようなものだけでも捨てる必要はないのではないか、価値があるのではないか。
男性ならそう思うでしょう。
まあ、そうして「とっとけ爺いに捨てとけ婆あ」なんて話にもなるわけです。
男性はいつまでも引きずる。女性はキッパリとしています。
「ずっと」ということ、「永遠」は絶対であると同時にそれは突然に失われるものでもあります。
それまで大事にしてきた時間を引きずることもありません。ただ永遠が失われれば無価値になるのです。
やるしかありません(笑)
男性はそうするしかありません。答えは女性の側にあります。女性を通じて永遠を感じるのです。
まるで自転車の乗り方を覚えるように、よたよたとしながらも続けるのです。
それは覚悟です。愛を前にして男性は覚悟を持つことになるのです。
男性が永遠の感覚が分からないのは当たり前のことです。しかし分からなくてもただやるしかない。
女性からの求めに応じてあげるのです。そこで意味や理屈を考えようとしてはいけません。
しかし実際には「ずっと可愛がって」なんて言われれば「そんなのどうすりゃいいんだ」なんて男性は反発さえしてたりするものです。
永遠に可愛がるって、仕事もあれば子供もいる、老後はどうするんだ、なんて。
しかしそれは理屈です。ただの理屈でしかありません。
男性の得意な論理性です。
男性には意味や理屈が必要です。納得できないと何事もやりにくいものです。
女性にはそうした理屈に優先する本能、生理的な感情があります。
こと女性にとっての永遠となれば男性には分かりようもないのですから、ただ求めに応じることに努めるしかありません。
だから女性からの求めを拒絶してはいけません。これは同じことです。
それは小さなことでも大きな禍根を残すことがあります。女性が何かを求めたら決して拒んではいけないのです。
仕事や時間、どんなものにも優先させようとすべきです。
女性からの求めを拒んではいけない。
もちろん、性交渉なんてその最たるものです。求められたら決して拒絶してはいけません。
女性としては永遠という絶対の価値を求めているだけなのです。
それを筋道を立てて理解しようとするのは男性の論理です。理屈があれば優先順位がつけられるからです。
女性からの求めよりも明日の出張のために起床時間を優先させることが出来ます。
しかしそれは男性の論理に過ぎません。女性の絶対の価値を理解できないのに理屈をコジつけているだけです。
永遠に可愛がる、その絶対の愛は自分だけにしか向けられてなくてはイケないのです。
時にはプラモデルや釣り、ゴルフなど、男性の趣味さえも女性には邪魔に思えたりします。時にはペットさえも。
「そんなにゴルフが好きならずっとやってれば!」
イラついた女性がこんな言い方をすることはごくありきたりの場面です。
ゴルフでなくとも仕事でも同じです。言い訳は男性の論理です。その論理を使って欺瞞したりもできます。
しかし女性には永遠がまずあるのです。嘘は通じません。
「ずっとやってれば」、ここにも女性特有の言い方があります。男性は違う意味、単なる修辞としか受け取れないはずです。
男性が心がけるべきこと
すなわち、女性にとっての本質的価値というのは絶対ということなのです。
それはレベルではありません。
強弱、長短、比べられるものではないということです。
好きか嫌いか、理屈ではないのです。
例えばダイヤモンドです。比べるべくもない永遠の輝き。
女性はダイヤモンドが好きです。絶対のものと感じる人が多い。
しかし男性にはただの硬い石ころでしょう。あるいは地球上で最も硬い鉱石、そんなところです。
それはレベルです。結局、感じたことではなく科学や頭で考えた基準に過ぎません。
ダイヤモンドから感じる絶対の印象ではありません。
「ダイヤは人工的に作れるのだぞ」なんて、男性なら一度はそんなウンチクを女性に言ったことがあるかも知れません。全くのスレ違いです。
分かってない。男性には分からないのです。
男性には永遠の輝き、女性にとってのその意味が分かりません。
だから「比べる」ことを女性に対してしてはいけません。これも重要なことです。
パートナーの女性に対してそうしたことを言ってはいけないのです。それは危険なキーワードです。
誰かと女性を比べたり比較してはいけないのです。れ
彼女自身の存在は絶対の母性です。誰かと比べられるようなものではないのです。
永遠の愛を誓い合った相手なのです。
それは時には彼女のアイデンティティに関わる話ですらあります。
自分は絶対なのですから。
母親として女性は絶対なのです。
それは産むということ。無から有を作り出すこと。人類そのもの。私たちの存在そのものです。
だからこそ女性には永遠という価値観があるのです。
ヌイグルミとだって、トモダチとの友情だって、思い出だって。
もちろんダイヤモンドの輝きにしたって。 男性にはよく分かりません。
そうした長さも質量もない絶対の価値があるということ、そんな永遠という価値が女性の中にはあるのだ、まずそれを認めることが大事です。
ボンヤリとでもいいですから受け容れてみるのです。
どだいその理解は男性にはできません。
それは理屈や論理ではないのですから。
男性は宇宙の広さだって理屈で片付けようとしてしまうものです。
そうして議論になれば「永遠や絶対なんてこの世にはない」、男性ならそんな話に必ずなってしまいます。
男性はよく言うものです。「物事に絶対はない!」なんて(笑)
それは理屈ではそうなのかも知れません。
しかしその理屈にはいつも限界があります。永遠ではないはずなのに円周率のようにどこまでも解けなかったりします。
結局、男性の論理ではそれを丸めたり省略したり妥協して納得します。
それは欺瞞です。
女性にはこうしたことは男性特有の誤魔化しにさえ見えているでしょう。
一方、女性の方には限界のある感覚というのはありません。
女性の感覚はいつも大きく羽ばたくように伸び伸びとしたものです。
それが男性にとって女性は畏敬の対象である理由でです。
そんな女性にとって絶対という価値感があることをまず認めるのです。覚えておくのです。
それが女性というものなのですから。
それは母として永遠ということ、子孫を産み続けてきた人類の女性としての感覚なのです。
絶対のモノ、その価値を女性は永遠と呼ぶのです。
古くから思索をめぐらせては女性の感じる永遠の意味を男性は考えてきました。
どんな種類の永遠があるのか、なぜ女性を突き動かすのかを知ろうとしてきました。 しかしそもそも理屈ではないのですからあまりそうしたことは役に立たなかったように思えます。
考えたことのではなく感じることなのですから。
何を? それが分からなくても合理的な理屈から理解できるはずです。
心が乗り移ったりすることはありません。妻といえども他人です。同じように感じることは不可能です。
しかし女性は我が子と同じことを感じます。母性はそうしたものです。
永遠の苦しみ、永遠の闇、永遠に続く時間。
女性はどうしてそれが感じられるのでしょうか。それが女性なのです。
男性は子供を産まない、埋めません。
女性は命を作り出すことが出来ます。
何もなくとも、自分の中に新たな生命を宿すことが出来ます。
それが実感できるのです。そこに永遠の源泉があると私は思います。
自分の中に生まれた生命は絶対の価値です。
それが本能で分かる。
それは絶対の価値なのです。
それが女性にとっての永遠ということになるわけです。
男性はただ女性のこうした気持ちを受け止めればよいのです。妻を通じて感じるようにすればよいのです。
女性に理屈を持ち出すのはほどほどにしたいものです。
合理的でなくとも女性の求める永遠に寄り添うべきなのです。
男性にとって愛が分からなくとも女性には分かっています。
女性はそれを感じています。
男性特有の理屈を遠ざけ、女性の求めに応じるのです。
求められたら決して拒絶してはいけません。
そうしていずれ女性の永遠に包まれることは何ものにも代えがたい幸福だということが分かるでしょう。
今は分からなくともきっと幸福を感じる時がきます。
それを信じなければいけません。
信じないから理屈を考えてしまうのです。
それこそ、私たちの存在や心は理屈抜きであるではありませんか。