2月14日、バレンタインデー
今回はバレンタインデーについてお話してみようかと思います。
寛いだ感じの方がいいかと思うからです。
あまり恋愛や出逢いのことを重苦しくしてしまうのもどうかと思います。それは文学や戯曲で語られてきたものです。
ただそういう物語には社会性というのはあまりないかも知れません。純文学の中では恋愛は気持ちと気持ちのぶつかり合いになります。何かのイベントを媒介した児戯では物語になりようもありません。
私にもうバレンタインデーは来ないのでしょうかw。
歳を取ったからか、私にはチョコは来なくなっちゃったwww(泣)。いけません。
昔はそれこそお相撲さんのようにドッサリとチョコを貰えたものでしたwww(嘘)。
下履きのロッカーを開けるとドサドサっとチョコが落ちてきた、なーんてwww(嘘)。
いや、しかしそんなのがホントにあった人だってやがて歳をとるのです。
「昔は一杯貰えたのになあ。」そんなボヤキの人もいるのかどうかw。
歳を取れば新しい出逢いにトキメクことがなくなってゆく、それはそんな意味に他ならないのです。
恋愛の意味さえまだよく分からず、分からないまま彷徨うように異性のぬくもりを探していた、そんなことがなくなったということです。
もしまだ探そうとしているのだとしたら、こうしたバレンタインや外部的なキッカケを利用することをお勧めします。
その方が楽です。そしてかつて学んだよく知っているタイミングだからです。
いや、もとい、失礼。
この頃の私にはよく慣れた枕の方が快適です。
大丈夫、ちゃんとまだフンワリしてくれているw。
熟年、これからがいよいよ面白い。
しかしそういう相手のいない人ならどうか。
バレンタインデーはまだ自分の枕(お相手)を見つけられてない人にはいい機会だと私は思うのです。
こうしたキッカケや口実があるのは便利なものだからです。
近づく言い訳というのができます。そしてあまりギラギラしないでいられる。
そういうものは便利でもあり周到なものだと言えます。
バレンタインデーを口実にして気持ちの一端を見せる。あるいは口実のフリをして実はホントの気持ちをさりげなく試してみるのです。
そんなキッカケを使えるのはよい。特に子供の頃、女の子の側からすれば危ないことがありません。
女性特有の恋愛への憧れのような気持ち、そんなデリケートな気持ちが壊れないまま伝えられるということです。
恋心を試すことができるのです。
どうせたかだかチョコレートです。割れたってたいしたことはないのですw。
キッカケと口実
最近の街を見てみれば、「バレンタインデーは流行らなくなったイベントかも知れない。」、そんなことを思うこともあります。
ちょっと前だったらチョコの売出しのテントが商店街に一斉に出たりしたものでした。
そんなことがあまりなくなったのは「最近の人々はいたずらに煽られたり流されることがなくなった」、それなら良いことだと言えますがどうでしょう。
果たしてはこんなイベントに人々は飽き飽きしてしまったのでしょうか。若い人にはハロウィンの方が目新しいものなのでしょうか。
それとも恋愛が面倒だと思われるようになってしまった最近のご時勢があるとか。
それも困ったものです。
確かに暮らしの中で男女の結び付きが大事とは思われなくなった、そんな雰囲気も感じないでもありません。
むしろ仲間とか友人関係、人間関係に忙しいように見えます。
それはそれで寂しい話です。人類にはオトコとオンナしかいないのです。
生きる楽しみを忘れちゃった、そんなことになってしまいます。
実際の話、人間には男女しかいないのです。
最近言われてるのはあれはいわば政治です。ただの政治の道具に使われているに過ぎません。
政治の道具にするために人々の嗜好を規定して、人々をただの群れとして見做そうとする残忍な言葉遊びでしかない。
人間にはオトコとオンナだけです。そしてジェンダーというものがあります。だから社会でそれぞれ男女が支えあうということができている。
こんな当たり前のことを歪めないでもらいたいものです。
貧困の現代。それは実に深刻なものがあります。外からそれは見えません。統計や株価からは見えない「見えない貧困」があります。
でも、もうバレンタインがすっかり建前になっちゃったような年齢の方、たとえ妻帯者だとしても、バレンタインデーというイベントを支える側に回ってもらいたいと私は思うのです。
たとえご夫婦だとしても、そうしたイベントがあることは忘れないで欲しいものです。
他の恋する人たちのために、形ばかりでも私はバレンタインという日を演じてあげたいと思うのです。それこそが少子化対策だと私は思うのです。
そう思えば最近は「人から見合いをすすめられた」なんてのもあまり聞きません。みんな「自己責任」の風潮になってしまいました。
そんな風潮はとても寂しいものです。人々が孤立しているのです。
最近は「婚活は自分でするもの」と決まっているかのようですが、昔は自分が片付けば他の人のお世話をしたものでした。
自分が恋愛を卒業すれば今度は他の人に縁談を勧めたりしたものです。
そういうお世話というのはまた次の世代や友人へとつながっていきました。そうしてみんなが自然に家族を持ったものなのです。
昔は結婚なんて当たり前のことでした。今はそれが逆になっちゃった気がしないでもない。
「婚活」なんて言って、チカラコブを入れるものでも本来はなかったのです。
まあ、そうは言っても役職があったりするとバレンタインデーというイベントは財布にはツラいものではありました。
義理チョコと分かっていても何かは返してあげないといけませんでした。
「義理チョコ」というのはいわば「煙幕」です。バレンタインのイベントをよりイベントらしく盛り立てて「本命」のチョコを紛れ込ませるためのトリックです。
しかし貰えば貰ったでお返しが必要なのです。本命を貰った人が目立ってしまうのですからこちらも乗ってあげないといけません。それがハンカチを贈ってあげるにしたってそれもなかなか高かったのです。
私はキャンディで返したらケチだと言われ、ストッキングにしてみたら嫌な顔をされたことがあった(泣)。
気持ちが揺れ動いた時代
是非、バレンタインデーという機会を恋愛に活用したらいいと私は思います。そういう風潮がまた起きるといいと思う。
改めてこの日を見直すべきだと思うのです。
廃れさせるにはもったいない話です。この日に女性が男性にチョコを贈るということ、これは我が国で独自に発達した文化と言われます。
遠慮がちで繊細な我が国の文化が我が国なりに作ったものだと私は思う。
特に若い人や子供なら、バレンタインデーをもっと盛り上げたらいいと言ってあげたい。
それは役に立つからです。人の気持ちを理解する経験になります。
恋愛のコミュニケーション・ツールになっているということです。
バレンタインデーにチョコをあげるなんてことは「気持ちのチラ見せ」とか「サイン」の端くれでしかありません。
そんなに重たいものでもない。いわば「コクる」前の段階です。
その昔はそうやって、ちょっとチョコを送ってみて相手の様子を見るということが女子たちにはありました。
コツンと音がしたか相手に響いたか、どうだろうか、とw。それを女子は陰から見ていたものです。
何もその男子に思い当たるフシがない様子だと、女子は失望して諦めてしまったものです。
それも密かにさっぱりと諦めたw。
「そんな簡単に女子は好きということを諦められるものなのか」、そんなことを男子は思って首をひねったものです。
しかし女性というのはそうしたものです。まず自分を気に入ってくれているかどうかが大事なのです。
それがバレンタインデーというイベントを口実にして取っ掛かりができる。試すことができるのです。
差出人不明のチョコが机に入ってたというのもよくあったことです。差出人が分からないから貰った男子は誰からか考えたものでした。
どこからかそれを見ている女子がいた。息を呑んで見つめている。そんな女子の姿がバレンタインデーの日にはあちこちにあったものです。
そうして脈があるようだと分かると、やっと少し近づけるようになった。
それはギクシャクしていて、とても不器用な気持ちの表明でした。
「告白する」という重さまでゆかないまでの、それより前の用心深くて切ない気持ちです。それが最初の気持ちです。
バレンタインデーという日を巡ってそんな心が揺れたのです。
若い頃にはそうやって好きになった人と距離を近づけるやり方を試行錯誤しながら学んでいったものなのです。
貰った側の男子にしたってそれからの配慮が必要になります。
誰々からチョコを貰ったぜ、なんてことを周囲に不用意に言う男子は女子たちからなじられたものです。
ああいうオトコはダメね、嫌なヤツよ、ロクなもんじゃない。女子たちの集団からそんなことを言われてしまったものです。
「あいつはデリカシーがない」、なんてこともよく言われたものでした。
それは女子の繊細な気持ちを男子は分かるべきだという教訓になります。決して今のように言われているほど男女は平等なものではありません。まず男子が分かってやる必要があります。
好きなタイプというのは人によってそれぞれです。誰がどんな男子を好きなのか、どんなタイプがいいか、なんてあけすけに他人と話すことではありません。
恋愛感情などその人の胸の内だけに仕舞っておくべきことです。秘密にしておくべきことなのです。
こんな話だけでも性のことを社会的な問題にすることがおかしいと気付くと思います。
バレンタインデーという日をキッカケにして男女の気持ちが揺れ動いていた時代があります。
まだ本格的に恋愛で気持ちが揺さぶられる前の、それはちょっとした練習のようなものでした。
そうして学んでいったものでした。
今の時代はどこか歪んでいるような気がします。
人に対する態度を学んだ
ともかく、そのバレンタインデーを取り巻くザワザワした雰囲気がありました。
その中で男子の方もそれぞれにこの日を特別に意識したものでした。
貰えなければ自分に何が足りないかを考えた、貰えばその気持ちを考えた。
誰しもチョコを貰ったことや、贈ってくれた相手のことを尊重しなければならないことにやがて気が付くようになったものです。
なんでもかんでもオープンにしちゃいけなかった。
恋愛というのはそういうところから始まります。
それは内面からこみ上げてくる「好き」という感情です。それが恋愛です。
ひどく子供の時分には「お前はあの子が好きだろう、コクっちゃえ。」なんて話が出ることがありました。
周囲がハシャいだりハヤシ立てたりして背中を押したりした。
しかし、それでその気になって付き合ったりコクったりしても、たいていは上手くゆかなかったものです。
人に背中を押されるようでは恋愛とは言えないのです。それは自身の内面からこみ上げてくる「好き」という感情ではないからです。
だからそうした機微が分かっている男子はそんなことを友人から言われれば怒ってみせたものでした。「俺の恋愛にクチを出すなよ」、と。
ちゃんと子供の頃からみながそういう経験を積み重ねていったものです。
まあ差出人不明のチョコの贈り主は同姓からかも知れなかったわけですが(笑)。
チョコをあげるだけのことですが、そこには人の気持ち、恋愛に関わる様々なものが隠れています。そうしたイベントとされているからよい口実だと利用します。
何はともあれ慎重に振舞うのが当たり前です。
気になる子だろうがあまり意識してなかった子だろうが、気持ちを贈ってくれたことへの感謝は見せて、それはそれ、これはこれ、ということ。そうして、そんな風に人を尊重する気持ちが育ちました。
好きという感情をあまり剥き出しにしないということも学びます。
誰にでも人を好きになる権利はあるのです。無碍にする残酷さを知っておくべきです。だからこそ自分の気持ちはむやみに振り回すべきではありません。
しかしそれが分からないという人はあまりモテません。人の気持ちが分からない人はモテない。そしてずっと分からないままだったらその人は人生がもったいない。
チョコを貰っても「あの子はタイプじゃない」なんて、そんな態度でいれば不用意に人を傷つけてしまうものなのです。要は「自分の勝手な理屈だけではいけない」ということです。
そしてどんな態度や振る舞いも必ず人に見られているということです。私たちは社会的な群れの中で生きています。
男子は女子の視線の前に正しくなくてはならなかったのです。
私たちはそういうことをこんなイベントからもゆっくり学んでいきました。
確かに「好き」という感情をまだ持て余しているような年頃でした。
そうした中でも、バレンタインデーをキッカケにして恋愛というものが何かを少しでも掴もうとしていたのです。
そんな出来事があったこと、そんな特別な日と感じたことがあっただけで今の私たちには恋愛の貴重な経験になっているはずなのです。
その日を迎える心
バレンタインの日が近づいてくれば男子も女子もソワソワします。
女子はチョコをどう贈ろうかと考えます。手作りにしたり本命や義理なんかを紛れ込ませることも考える。
傷つかないように用心しながらも自分の気持ちを試せるこの日に女子は身構えます。どんな反応があるだろうか、と。
男子は考えます。自分はホントのところどんな子が好きなんだろうか、と。どの子からチョコを貰ったら本当に嬉しいのだろうかと。
そして自問自答する。自分にとっての恋愛というものを見つめ始めます。
そうしてまた思う。バレンタインデーという日を迎えるのに自分はどういうスタンスでいようか、と。そんな風に恋愛に向き合うことを考えてゆくのです。
そんなことを考えるだけでも役に立ちます。いわば人間の成長のコヤシになるのです。
男子にはそんな受け止め方があります。
では女子はどうなのか。
恋愛ということ考えるなら、キッカケをつかんで先手を打つ方が女子には楽です。女子というのは思い切りがいいものだからです。
そして女性というのは傷つくのが苦手で臆病でもあります。
するとバレンタインデーというイベントは便利です。
人の気持ちをたとえ片鱗でも、危なくないような形でぶつけることができます。相手の気持ちをそれとなく覗けるからです。そんなイベントだ、なんていう言い訳があるのですから。
一方、男子からすれば一途な気持ちをいきなりぶつけられるのは重たいものです。
だから「チョコをあげみて相手の様子を見る」なんて言い訳は男子にとってもいい手段となります。
女子にとつてはあくまでゲームのようなやり取りができるのです。表面的には気軽な感じを装っていることができます。
恋愛を巡る人への心遣い、そういうことの大事さが男女ともに分かってゆきます。
男女の違い、その互いの役割、恋愛感情の受け止め方の違いというのも分かってくる。
そうして大人の階段を昇っていった日々が昔の人々にはあります。そんな機会が最近は少なくなった。
今の若い人たちはとかく恋愛下手だと言われます。
「コミュ障」なんて言われ、恋愛どころか人との付き合いが上手くできなかったりする人も多い。
小さなことですが、こんなバレンタインデーのようなキッカケが少なくなってきたためかも知れません。
もっと子供の頃から許してあげていいと私は思うのです。こういう口実があることの効用というのはあるからです。
それは何もチョコレート屋さんの儲け主義ばかりでもないと私は思うのです。
そうして歳をとってしまえばやがてバレンタインが来なくなります。伴侶ができたりします。世間的な体面が邪魔をするようになります。おそるおそるの気持ちの交換なんて不要になってゆきます。
大人であれば大人としての実直さが求められるようになります。信頼しあう絆が必要になります。そうするともうバレンタインデーというイベントに助けを借りる必要もなくなってゆく。
バレンタインならぬ「バンアレン帯」、熟年となればそんなものかも知れませんw。地球を取り巻く磁場w。
特定のパートナーとの間で磁場がすっかりでき上がってしまいチョコの効果が届かなくなる(笑)。
ちょっとした冗談ですが。
結婚や恋愛に前向きに
今、バレンタインデーという習慣が廃れつつある気がしますが、それなりに昔から使えるものだったと私は思うのです。
少子化なんて大袈裟に騒ぐ前に、男女の結び付きを軽んじない風潮を取り戻さないといけない、そう私は思うのです。
気持ちの交換を軽んじてはいけない、そういう社会でなくてはならないと私は思います。
「孤独を楽しめる」なんて、私のようなヒネクレた人間ばかりでは面白くありません。それこそ私からすればそんな人ばかりでは面白くないのですw。
若者がスマホなどで常に誰かにつながっていられるご時勢だとしても、ちょっとした動作や人からのモーションを理解できるというのは経験を重ねないと難しいものです。
それは実在。目の前の人と人との関係なのです。
「肩叩き」なんて、その意味するところが分からない人がいるでしょうか?
今はこの言葉が分からないという若い人もいるんだとか。驚きます。
「コミュ障」のまま歳を取るなんて寂しい話ではないか。
「モノのやり取りはトラブルの元だ」、なんて言って、学校も会社も堅いことを言うべきではありません。バレンタインのチョコのやり取りぐらい黙認したらいいと私は思うのです。
他でケジメがつけられてないくせに、こんなバレンタインデーごときに目くじらを立てても洒落にもなりません。
教師や管理者は、せいぜい静かに見守ってやり、行き過ぎたようだったらブレーキをかければよいだけの話です。
すぐ杓子定規なことになるのは怠慢というだけではないか。
しかし恋愛に怠慢なんてあり得ないのです。みんな真剣になるべきなのです。こんなイベントはとてもよい機会になります。
貰って返し方が分からないなら「お返しにストッキングでも贈ってやれ」なんて教えてやればよいw。
結婚や恋愛に前向き、そんな空気が今は必要だと私は思うのです。
少なくともバレンタインデーは恵方巻なんかよりずっと使える歳時記だと思う。
バレンタインデー異聞
まあ、「恵方巻き」にしたって私にはこなかったわけですが(笑)。
いつだって? え? 節分?
節分っていつだっけ(笑)。今年は2月3日だったとか。
「節分天井なんでしょ?」、なんて家内は言いました。w
あんなものは「ハメルーンの笛吹き男」みたいなものではないか。笛ならぬ恵方巻きをクチにくわえて人々を惑わしているのです。
「農業は窒素を放出するから地球に有害だ」、なんてことをやる。そんな惑わしでしょうか。
恵方巻きは元は芸者を使った遊びに過ぎなかったと言われています。
バレンタインデーは14日。2月14日です。
その日はかつて「血のバレンタイン」なんて事件がありました。
禁酒法時代のこと、アメリカはシカゴで起きた銃撃事件です。ギャング同士の抗争でした。
あのアルカポネが黒幕だった。
つまり不吉な日を思わせることもあったわけです。そんな連想を私はしてしまいます。
それでもいいと私は思うのです。明るいものばかりでなくともいい。チョコレートひとつで一喜一憂するのもいいと思うからです。
吉日も仏滅もあるものです。フラれる結果を畏れていたら何もできません。
バレンタインデーは「節分天井」よりはずっと不吉な言い回しではないと思いますw。
私は欧米の女たちから日本のバレンタインデーの習慣が変だと言われたことがあります。
どうだろう、私は考えた。男性があげる日なのか、女性があげる日なのか。
「どっちが先に相手を好きになったか?」、こういう話が男女関係には割とつきものです。
口論になることがあります。
夫婦でも、旦那から先にプロポーズされたのよ、とか、いや君の方が俺にぞっこんだったじゃないかか、なんて後先の論争があったりしますw。
これは古くて新しい話かも知れません。
恋愛は先に好きになると損なのでしょうか(笑)。
そういうことが男性には負い目に感じられることがあります。
求愛して受け容れてもらったら男性は女性に「ありがたい」と思わないといけないのではないか。頭が上がられないのではないか。そういう強迫観念のようなものが男性にはあります。
男性が惚れたのが先だったらカミさんに頭が上がらない、男性の思考ではそんなことになってしまいがちです。
しかし、あまり「女性の方から先に惚れた」なんてことになるのも考えものです。
「先に惚れられたんだから浮気ぐらい勘弁しろ。」なんて、変な理屈を言い始める男性もいます。
女性に節度を求めるよりは男性にこそ節度を求めたいものです。節度というのは女性には元から備わっている資質です。母性としての保守性からくるのだと言っていいい。
だから私は男性から惚れたという形の方がいいと思います。
そうした上で、バレンタインのチョコは女性の方から先に渡されるわけです。
チョコはほんの気持ちで贈ったものだけど、男性の方は惚れてしまった、となります。そんないいカタチになるw。
欧米の女性なんて、常にハグしたりしてないと気が済みません。欧米の男性はそれに自然に応えてあげるものです。
日本男児にはそういうところはあまりありません。
だから我が国では女子から男子へ最初にチョコをやる方がいいのです。形としては女性から男性へアプローチがあったことになっています。
それから惚れてしまうかどうかは貰った男性の側の問題、ということです。
熟年になるとこういうことは遠慮せずにできる。高ぶることもそうはありません。いい歳をしているからできることです。
照れ臭くて昔はできなかったものでした。思えば少しもったいないと振り返ります、だけどそのぐらいがいい思い出になるコツなのでしょう。
最後に一句、「歳とれば 唇寒し 燗待つ間かな」
※ 歳を取ると唇が寒いような気がします。寂しさも堪える。
熱燗でもくれるかと家内に頼んでおいて、燗が出来るその合間に接吻。
歳取れば口づけなんてそのぐらい軽いものになっていい。
おそまつ