男子にとっての集団
考えてみればこの話は何も熟年の婚活だけに限った話ではないでしょう。
しかし熟年になったからこそ改めて自戒する必要があるかも知れません。それこそ第二の出逢い、人生最後の出逢いを探している人もいると思うからです。
それはグループや集団のこと。
女子の群れ、男子の群れということです。
まず前提としたいのは出逢いを成功させたり結婚を成功させたりする最も大きな要素とは何か。
結局はそれは「愛」に尽きるということです。
愛だけがすべて。
その愛が何かはしかしあまり判然としない、その問題はありますが。
しかし少なくとも愛とは二人の間のことです。それは間違いありません。
その一方、人間は社会的な生き物です。グループを作るものです。
そのグループというものがこの愛の阻害要因になることがあるのです。
このお話が幸福な結婚や出逢いのヒントになれば幸いです。
さて、たいていの女子というのはとかく群れるものです。
良い言い方をすれば彼らは団結する。
そうして「女子」という集団として自分たちを守るのです。
これに対し、男子は一緒になればオトコ同士で争うものです。
彼らは群れの中でしのぎを削ります。
男子にそうした争いは避けられません。
そういう人は男子の群れで付和雷同して従うしかしない。そんな男子は女子にとってあまり価値はありません。
それは負け組みだから。
なにより、男子には序列というものがあります。それが戦うということにとってはたいへんに大事だからです。
誰が自分よりも下か、上か。優越しているか、リーダーなのか、家来なのか、負けているか、どうか。
オトコはそうした順位をつけようとするものです。その競争を戦おうともせず、ただ群れようとするだけの男子は最初から負けている。
それならひとりでいる男子の方がずっとマシというものです。どのグループにも加わらず群れない男子の方がよっぽどいい。いずれにしてもその男子も多くの出来事と戦うことになります。パートナーや家族を守ることになります。
闘争をしてグループや自分の優越性を高める、それが男性の本質です。彼らは色んなところで他の男子よりも優越しようとします。
それがオトコの本能なのです。
そして男子の群れはリーダーを中心としたまとまりを作ろうとするのです。
知恵が必要なら知恵のある者をリーダーにしてまとまる。
チカラならチカラ、カネならカネです。
精神力ならそのメンタルの強さ、ココロだというならそのココロがモノを言うことになるのです。
女性は団結する
一方のたいていの女子というのは良くも悪くも最初からまとまっています。
これは女子にとっては心地よいものです。
彼女たちは男性に較べて弱いという本質があります。肉体的にも弱いものです。
そのため女子は群れを作って外敵から仲間を守り、互いに家族を作りやすくします。お互いの価値を高めてゆく。いわば人生の落伍者を防ぐのです。
群れやグループというものは女子が孤立することを防ぎます。
ともに成長しともに悲しみ喜ぶ。
仲間内で祝福をし喜びを共有し、彼らはともに支えあおうとします。
ところが、これが出会いや結婚となるとちょっと問題が起きます。
いつまでも女子が女子の群れの中にいればまともな男子と出会ったり結びつくことはないからです。なぜならそれは群れやグループとは相容れない問題だからです。出逢い。
すなわち、よい相手を見つけて結ばれるには、いつか女子は女子の群れから離れる必要があるということです。
嫌でもそのために孤立を味わわねばならないということです。
そうするからこそ、弱く無防備になった女子に好ましい男子が助けに現れるのです。
それが出逢いです。
シンデレラ物語や白馬の王子の話はそうした寓話と言えます。
出逢いのためには必ず一度は孤立する必要があるのです。
女子たちはグループを作ります。
これに対し、男子の場合の群れを表現するならそれは「ツルむ」ということです。
ロクでもありません(笑)
昔は常にツルんでいるような男子は「ホモね」なんて女子たちからよく冷笑されたものでした。
昔の女子は男子のことがよく分かっていました。
あまり群れてばかりいる男子にはロクな連中がいないものです。女子からは冷たい視線が注がれたものです。
相手にならない。
男子は序列のために常に闘争していなければならず、女子のように団結するなどチャンチャラおかしい女々しいだけの話だったからです。
そんな男子が果たして自分を守れるものか。それが女子たちには分かっていたのです。
しかし男子の方から女子を見れば男子は疎外感を感じました。
男子のグループはせめぎあいばかりしているのに女子たちは団結している、と。
そうして男子はそんな女子たちを逆に「レズかよ」なんて言い方で罵倒したものです。
昭和の頃のその昔、ホモやレズなどと子供たちはまだ覚えたての言葉を使って女子と男子のグループの性質の差を互いに意識していたのです。
牽制すらしてお気に入りの女子をグループから引き離そうとさえしたものでした。あるいは女子は男子のグループがどれだけまとまっているかを試そうともしました。
こんな話、もはや当たり前の言い方が通らなくなった現在では遠い昔かも知れませんが。
男子と女子のグループの特性
男子は闘争本能を制御できません。
これに対して女子は感情やムードに流されることになかなか抵抗できない。それはグループへの帰属意識が男子よりも強いからです。
ある日、そんな女子と男子とが出会って結婚なりパートナーとなるべく関係を始めるとします。
二人は付き合い始める。
この時、女子は群れにいたのではいけないのです。
なにより二人の関係を優先しなくてはいけません。
しかしいつまでも女子の群れにいる気分の女性もいるものです。
必ずしもそれは良い結果はもたらさないでしょう。ケジメをつけるのが難しい人もいるのです。
たいていの男子というものはもともと孤立がちです。男女の関係としては群れに従属する負け組み男性との関係というのはあり得ませんからこれは必然です。
するとそうした男子は一対一の対等の関係として女子と結びつこうとします。闘争本能とは無縁のところで女子と結びつこうとするからです。それは政治や力関係のないところでの男女の結びつきです。
この時の男子に群れはありません。たとえ見かけはみんなと一緒にいたとしても帰属意識はない状態なのです。
男子は一人の男子として相手に評価され選ばれることを望みます。
それは逆に言えば一人の女性として尊重できる女子を男子は求めているのです。
この時、まだ女性が女子の群れのいわば鳥かごにいてそこから出られないでいるなら、その出会いはたいてい雲散霧消してしまうものです。 つまりなぜだかの自然消滅、よくあることです。なぜだか「ご縁がなかった」となってしまうのです。しかし実は女子がグループに帰属していただけということも多い。悪いことに男子はこういうことにわざわざ説明はしてくれません。
女子にはグループの中で流されがちな感情というものがあります。これも男女の出会いには余計なものです。従って大事な時は女子はグループから距離を置く必要があるわけです。そうでないと縁になりようもないのです。
これが分からない女子も多いものですし、グループが分かるわけもありません。進んで巣立ちを勧めてくれるグループもあまりありません。
そもそも、女子というものはまるで他の女子の足を引っ張っているように見えることがあります。
それはそのグループの結束のためにも必要なことだったりもします。
どうしても群れにはそうしたバイアスがかかりやすいものなのです。
それは古来からそうでした。なぜかご縁が続かないという時、女子にはきっとなんらかのしがらみがあるのです。男子はそれを容易に感じるものです。
特に女子に言えることですが女子は群れから離れるべき機会を逃してはいけないのです。
女子とていつか群れを離れる時が来る
こういう群れから離れる時を感じることはあたかも雛鳥の独り立ちと同じようなものです。
女子の群れの中からひとりの男子へと、ひとりで歩み寄っていけた女子は成功します。
ちゃんと相手を見極めることができます。良い男子と結ばれることができるのです。
しかし残念ながらこういう考えの転換がなかなか出来ない女子は多くいます。
あまりひとりでいられる女子は珍しいものです。そうしてそんな女子はたいてい出逢いに成功する。
失敗が多いのはいつまでも女子のグループの中にいて自己承認欲求を捨てきれず、皆から祝福されるような出会いばかりを探す女子です。
グループからの祝福や共感さえ求めてしまうのです。グループへの帰属意識が捨てきれず、承認欲求が抑えられない。
プライベートがまるでなく多くの友人が彼女の暮らしをよく知っている。
それは確かにグループにいた方が安全なように見えます。
みなで守り守られながら男子と結ばれることの方が安全なように見えます。
しかし結局、女子のグループを男女の仲、ましてや家庭に持ち込めるわけもないのです。そんな雑音を持ち込めば家庭などたちまち壊れてしまいます。
それはしかし親や親戚でも同じこと。女子の同僚や友人関係だけに限ったことではありません。
結局は家族関係に紛れることにしても同じ。女子の群れの中にいたままになるのと同じことになるのです。
せいぜいが群れと群れ、その中から相手を探すことになります。
そうなると相手は平均化された相手ということになります。誰もが認められるような平均値でしかない。それはすなわち集団の中で主導権争いや闘争をする男子の中で弱い男子ということになります。
悪くすれば自分さえなくしているかも知れません。男子にはそういう精神的な逃げ道があります。論理的な動物だからです。
自分を守ってくれない男子、弱かったり意志のない男子、思慮の足りない男子、アタマの悪い男子しかいないのです。
みな縁やしがらみ、誰かの存在が常に背後に見え隠れするような男子です。
結局、彼らは男子の群れの中では序列の下層になることになります。
彼らがそこから抜け出ることはほとんどありません。付和雷同して独り立ちできないままです。
それは十羽一からげ、いっしょくたにされるだけの男子でしかありません。
その男子には女子にとって唯一無二の価値はないのです。
そんな男子を「平凡」と言って来ましだか、それがこの少子化という現実。
最上の出会いは孤独の中に
最上の出会いは孤独の中にこそあります。
男女お互いが真にお互いを認め合えるという関係は孤独からしか生まれません。
しかし孤独には危険が付きまといます。
いつまでも孤独でいれば安全でなく情報からも取り残されることになります。
だから平時はグループの中にいてイザという時には群れを離れる、そのタイミングが大事なのです。
機会を間違えずに捉えること、その機微が必要になるのです。いわばそれは思い切りです。
これまで女子が安全に成長してこれたのは女子の群れとしての団結力と結束力のおかげでした。
お互いがお互いを補い、慰めあい、成長し、ともに共有してきたものは貴重な財産です。
自己を否定されることもなくお互いがお互いを高めあったことでしょう。傷ひとつない女子はそうやってできたのです。素晴らしいことでした。
しかし、イザ男女の出会いとなれば女子はその安定から抜け出さなくてはならないのです。
良い相手と出会いたいというのであれば。良い出逢いにしたいというのであれば。
男子にしても、仲間うちのしのぎあい、ホモっぽい結びつき、共感だらけの慰みからは抜け出さなくてはいけないのです。
その覚悟がある人だけが良い出会いと良い縁を結ぶことが出来ます。
「女子というものは他の女子の足をひっぱるものだ。」これは男子から見ればごくありきたりの出来事に思えます。たいていの男性だったらこれを否定はしないでしょう。
なにしろ争いもせず仲良く群れているのですからそこから出ようとすれば足を引っ張られるというわけです。異分子は排除されます。
だから男子にとって女子の群れはみな一蓮托生に見えます。
群れに囚われているようにさえ見える。
普通の男子には入っていけないところです。
こういう女子のグループを見て、「あまり深入りはできないな。」、そんな風に諦めてしまうのはまともな男子です。グループの中にいたままではまともな男子が振り向くことはありません。
群れでの評判を勝ち得ようとしたり、女子のグループに入り込んでチョッカイを出すのです。
噂を利用したりグループの感情に訴える。
同調したりラベリングを利用したりして自分を売り込む。そうして女子のグループの特性を利用するのです。
しかし、そんな運命共同体というのが果たしてあるものでしょうか。同調圧力だけで維持されるグループというものが。
すでにそれは敗者どうしの馴れ合い、歪んだ友人関係になってしまってるのです。
あまり楽しいことにはならないでしょう。
馴れ合いが過ぎてベタベタした関係をいつまで引きずって、一時の過ちと言っても誰にも出口が見えません。一蓮托生、負の連鎖です。お互いにまるで監視するかのようにして足を引っ張り合うことになります。こういうこともよく見られることです。
賢さと勇気が出逢いには必要なのです。
女子同士の良い関係などいつかはなくなるものです。
友人との関係への踏ん切りのつけ方がよい出会いをもたらします。
いつかは必ず、群れずにやっていかねばならない時が来るのです。
それは女子会でも、ママ友でもそうです。マンションの隣人でもそう。
婚活に苦労している、そんな女子はグループやお友達との付き合いを大事にしている人が多いものです。とても義理堅いように見えます。
しかし悪く言えば割り切りがないのです。
ことによったら友人たちに出逢いを報告さえしたりします。男子にはこういうのは最悪です。
どうしても同性同士のグループの関係を引きずったり影響を受けてしまうのです。
しかしどんなに他人を見ていても自分の幸福は見つけることは出来ません。戸惑い、付和雷同し、結局は自分を見失ってしまうことになります。
いつかその時には女子たちの群れから自然に離れられる人、そんな女子だけが確かな出逢いを掴めるのです。
それが二人で考え、二人で楽しみ、パートナーと二人で生きることにつながるのです。
いったん巣立ってしまえば昔の友人関係などほとんど忘れたようになるのが普通です。同窓会や謝恩会なんてものがよくありますが賢い男女はあまりそうした集まりには寄り付かないものです。
まあ、だから田舎の人間関係というのは厳しいところがあるのですが。
逆に言えば競争がないとは言えるでしょう。負け組みでもなんとかやっていける。リーダーに従えばなんとかやっていける。そういう恵まれた環境ならいいかも知れません。田舎での出逢いとグループというのもあるのかも知れません。
私はしかし田舎でも都市部でもあまり関係がないと思っています。
田舎での因習みたいなものさえ想像してしまいます。
なにしろ出逢いはそれだけでは終わらないからです。子供を作るなりお互いを看取ったりするからです。
やはりいつかは群れからの巣立ちの時を迎えねばならないのだと思います。
だからこそ家族を作ったり子供を作ったり、二人の関係を深めていったりするのですから。
お年を召されたご婦人たちが仲良しの女子同士で集まりがちなのはとても理屈にかなったことです。
まるで子供の頃に返ったかのように彼女たちが女子の仲良し関係に戻ってゆく、それはよくあることです。当然のことです。
まだご夫婦でご健在でも、ご主人と死別されていても、そんな妙齢の女子同士でのお付き合いが盛んな方はよくいらっしゃいます。
彼らはもはやパートナーとの関係を深めることを必要としていないのです。
そうして、男性との楽しみが不要になった女子は女子の群れに戻ってゆくのです。
このことを考えれば男女の出逢いを必要とするならどれだけグループの絆というものが邪魔になるのか分かるでしょう。
何事も見極めなのです。
いつか、群れない時は来ます。群れるべきでない時がある。
そしてまた群れへと戻ってゆく老後というものもあります。
後戻りできない熟年離婚などしてしまうぐらいならいっそ女子会の方が有意義かも知れません。
しかし人間は死ぬ時はひとりです。
私ならパートナーのことを思いながら死にたいものです。
孫や息子、兄弟や遠縁にさえ囲まれ、大勢の家族に看取られた人を私は知っています。同僚や友人たちに見守られながら亡くなった人を私は何度か見たことがあります。しかしみなあまりいいお顔はなさってはいなかった。
静かに死なせてくれ、まるでそう言ってるように私には思えた。
どんなシガラミでも冥土にまで持っていくことはできないのです。