一般論としての議論、男性はこうだ、女性はこうだというような話は最近はすっかり聞かれなくなったように思えます。
これはいわゆる女性論・男性論というものですが、今では「禁句」と言ってもいいぐらいです。
今の世の中は、メディアや政治が色んな人々を軽々しく類型化してしまうくせに、LGBTだの女性参画社会だのと建前やスローガンの政治利用が横行してます。
ごくシンプルな女性論・男性論すらおおっぴらに論じられようとはしません。
血液型占いのようなインチキな類型は気安く流布されるのに、なぜか女性の感情的な傾向や男性の保守的な傾向について論じようとすれば、ちょっと触れるだけでもとたんに「男女差別的だ」などとされてしまいます。
こういう議論を封じ込め、これは社会的な性別による差、すなわち「性差=ジェンダー」だから乗り越えるべきだとすることはあまりにも無理があります。
男性でも女性でも自分の性別を意識するものですし、男や女としての社会的な立場を望んでいます。人は無機質な機械のように扱われるべきではありません。そして人は誰しも自分を理解されたいと思っているものだからです。
人間には男と女しかいません。
近年、LGBTの立場がむやみに声高に叫ばれるうちに男性論や女性論はかき消され、代わりに男女同権という孤立しがちなスローガンが幅を利かせているように思えます。
たとえゲイやトランスジェンダーと言っても生物学的にはどちらかでしかありません。
結局、彼らにしても男女のどちらかであることを否定することはできないのです。
その現実を認めることは差別的なこととは言えません。ゲイにしてもレズビアンにしても男性役、女性役がいるのが普通なのです。
第一、ゲイの社会なら普通のことでも、大多数の人々からすればあくまで「異なった性癖の人」として見られるのは当然のことです。
それで白眼視されたり社会的な扱いで不利があるとしたらおかしなことですが、一方で彼らをわざわざ裸にして、どんな性的嗜好があるかを公言させる必要もありません。つまり公平さという善意の要求が大きな差別を産んでいる可能性があります。
「カミングアウト」なんて都合よく言ったりしていますが、それは好奇の目による晒し者に過ぎません。
それならゲイ論やトランス論を論じればよいだけなのです。
それと同じことです。
男性論や女性論を封じるべきではありません。
かつて1980年代には「ゲイパワー」というのがアメリカにはあり、多くのアーティストやミュージックシーンを生み出しました。
それは多くの映画や音楽、カルチャーを生み出しました。
それはゲイはゲイであるというだけの主張に過ぎませんでした。
しかし、今の風潮というのは明らかにこうしたものとは違います。
今のLGBTを巡る動きは明らかに政治利用だと言えます。
男女同権論にしてもそれは同じことです。
そんな政治利用を許さなければ、男女の傾向を考えたり論じることでお互いの差を乗り越えようとすることはできるかも知れないのに、男女同権の主張が政治利用されることによって議論は阻害されています。
そのため今や男性が女性というものがよく分からず、その思考様式にとまどうということも起きているのかも知れません。
男女のすれ違いが多くなっているのではないでしょうか。
女性は女性を理解しない男性が頼りなく見え、歳をとってパートナーが欲しいという気持ちを持て余しているようです。
また一方の男性も女性から抗議されないか身構えてしまい、女性へ男性としてのアプローチができなくなっているようです。
そうして男女は、お互いの認識の違いから突然に衝突してしまう、そんなことがありがちに思えます。
女性は男性の求める理想を受け入れられないから、女性は孤独感だけを抱えて彷徨うことになります。
男性は女性像というものを思い描くものですが、女性はそれを現実逃避や未熟さとして嫌います。
男性の女性への依存心を「マザコン」などと非難する女性さえいます。
そんなスレ違いはあちこちで起きていると思います。
では熟年になり子育ても終わった男女は、いったいどんな認識で相手を見るべきなのでしょう。
介護や健康という現実はあるでしょう。加齢という現実があります。
しかし若い頃と同じようにただ旅行やドライブ、遊興だけに時間を費やすことは有意義とは思えません。
確かにドライブや旅行も現実のことですが年齢を重ねてきてたいていのことは経験済みです。
熟年ともなれば出逢いにおいてはお互いに寄り添える関係と時間を求めているはずなのです。
そうであれば、求めるものの違いや今のお互いの立場の違い、人生への向き合い方の違いなどをもっと話し合うべきではないでしょうか。
それがまだ出会ったばかりの最初から大人として摺り合わせることができれば、理想だと思います。
熟年こそそれが必要とも言えます。
女性は一般的にどんなことを考えているものなのか、男性は一般的にどうだろうか、それを漠然と考えるだけでも、お互いのすれ違いや誤解が解けるキッカケになる場合があります。
それは意味があることではないでしょうか。
こういう議論がLGBTなどと同じように政治的なスローガンに利用され、男女の考え方の違いを論じることがタブーとなってしまったことは罪なことです。
我々は「男女の違い」についてもう一度考えるべきなのだと思います。
例えば「お墓」を女性は要らないと言うでしょう。対して男性は墓がないような人生は送りたくないと思うものです。
成長した子供に女性は会いたいものでしょう。しかし男性は離婚した相手の子供に会おうとは思いません。ましてや子供が成長して独り立ちしたのであれば。
女性は秘密を嫌いますが男性は必要なことだけを話そうとします。
手料理を喜ぶ男性に対して女性はゴージャスなレストランに喜びます。
やや乱暴ですが、試しに例を挙げてみればそんなことです。
捻じ曲がったような、およそ信頼できるパートナーなど作りようもない人たちがこういう議論を封じようとします。
「男女差別」などとわざわざこうした言説を流布させ、人々の中で抑圧的に振舞います。
彼らは、他の男女を自分と同じ孤独へとひっぱり混み、一緒に溺れさせようとしているだけです。
そこには他人の幸福を邪魔をすることで自分の不遇を慰めようとする歪んだ動機があります。
そういう救いようのないプロパガンダというのはあるものです。
そんなことに「熟年の婚活」が邪魔をされ影響を受けているように思えます。
男女論がタブー視されることが熟年の婚活ではとりわけ目立つような気がするのです。
分別がつく大人同士だけに厄介です。
男の役割、女性の立場、これを論じずに平等ばかり主張するようなプロフィールも多いものです。
歳相応の暮らしや生活スタイルは何か、それが話し合われることはありません。
結局はカネと社会的立場、旅行や会食やドライブでお茶を濁してしまうことになります。
熟年の婚活が成功するためには、そうした政治的な雑音に影響されてしまわないか念頭に入れておくべきかも知れません。
男女同権だからと介護は人任せにされがちですし、持病があれば不利に感じてしまいます。
誰しも相手の世話に時間を費やす必要などない。そうしたことは外部のサービスなどに任せるべきで、男も女も人生を楽しむ平等に扱われる権利があるというわけです。
どこか一方的で冷淡な話です。これで信頼し合えるパートナーができるものでしょうか。
結局、今の政治利用だけの男女同権や男女共同参画社会などという言説は、出会いの機会や熟年の婚活を妨げるものでしかないのかも知れません。
特に熟年の婚活には男女間の差の理解が欠かせません。
更年期障害というものがあります。女性には生理的な現象として、イライラや動悸などが症状として表れます。
対して男性にも更年期障害があると言われます。それはメンタル面に表れるようです。
男女に現れる現象は違うのです。平等ではありません。
加齢による耳鳴りや更年期の発汗、ごく普通のことでも打ち明け話としてお互いに話されることはあまりありません。
女性同士、同姓、男性の友人間で話すことはあっても出逢いの場で話題になることはありません。
結局、そうした問題はいざ二人で暮らすようになってから出てくることが多いものです。
もはや子供を作る年齢でもなくなった熟年にとって、新たな婚活は「人生」そのものを見つめ直すことにつながります。
こうした現実への対処もこれからの二人の課題ではないでしょうか。
熟年の婚活は若い世代のものとは違います。
そこには子作りという家族計画ではない、「特別な欲求」があるとすることができます。
それは「パートナーを持つ」ということです。
どんなパートナー関係を望んでいるのでしょう。
どんな男女関係だったらよいと思うのでしょう。それが「男女同権」では成り立ちようがありません。
だからこそ、男にはこういう傾向があるんじゃないか、女性にはこういう人が多いんじゃないか、そうした議論をすることは決して無駄ではないと思うのです。
もっと肩の力を抜いてリラックスして、お互いの男としての傾向や女性としての傾向を素直に話し合ってもいいはずです。
そうすることで自分はどうか、一般論とは違うところはないのか、見えてくることもあります。
こうした認識を「思い込み」や「偏見」などと厭わず、話してみることはその後のすれ違いを避けることになります。
なにしろ熟年や壮年の婚活であれば、お互いに残された時間はそうはないのです。
だからこそ、むしろ若者よりももっと人生をエンジョイできる。 自由に恋愛ができるのだと前向きに考えたいものです。
議論は自由であるべきで、政治的なことや世間的な価値感に束縛される必要はないはずです。
それこそ、熟年になって新たな婚活が出来ることを大いに楽しむためにも。
お互いの性別の違いを楽しむ余裕を忘れるべきではないと思うのです。