実直さを求めてきた男とジェンダーレスの潮流

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男性が追求する実直さ

 男性というものは本質的に人に対して実直でありたいと願っているものです。
 そんなことは構わない、関係ない、そんな男性などほとんどいません。

 たとえ実際にはそうでなくとも、自分は実直にはなれない、たとえそう自覚していたとしてもです。
 少なくとも人には実直な人物だと、そう思われたいという願望が男性には常にあります。
 
 それが生きるのに必要なことだと本能的に分かっているからです。
 また、卑怯や卑劣を嫌うのも男性の本質的な性であると言えます。
 
 男性にはともすると利己的なことさえ嫌う傾向があります。
 これが過剰になれば「潔癖」ということになってしまいます。
 もともと男性にはそうした「モラハラ」的なものがあるものです。
 
 これを遺伝的なこと、生物としての必然から男性という性を考えてみれば、たやすく首肯することができます。
 卑怯な男は信頼されません。
 信頼されなければ群れの中で生きていくことはできなくなります。
 
 古代から人間は一人で生きてゆくことはできませんでした。子孫を残すのにだって相手が必要なことです。
 群れをつくり、集団でマンモスなどの狩りをしたり集落を作って農耕などをして人間は暮らしてきたのです。
 集団で勝手に振舞い始めればそんな人は反感を買ってしまいます。公正でない態度は信用されず群れで生きてゆくことはできません。
 
 すると結局、群れから離れたその遺伝子は絶滅してしまうことになります。
 実直でない遺伝子は自分の遺伝子を残すことができずに淘汰されてしまったのです。
 

集団生活

 太古の昔から人間は群れで生きてきました。
 そこには当然に秩序というものが必要でした。
 お互いの信頼というものがなくては群れは維持できません。
 強い者がリーダーとなって狩りなどを主導し、そして集団が共存していったのです。

 そこには信頼というものがどうしても必要になります。
 
 古来なら法もなく、言語さえなかったとしても、やはり信頼は必要でした。
 誰をリーダーにするのか、誰が群れを束ねてゆくのか、お互いの信頼が必要だったのです。
 これが単純に言えば率直であり実直であるか、という問題の本質です。
 
 ズルいことをして立ち回り群れの人々を騙そうとしたり、自分がリーダーとなって利益を得ようとする人もいたかも知れません。そんな集団は安定しなかったり諍いが絶えなかったりしたでしょう。そうして様々なやり方やルールが生まれました。
 こうして現代に続く人間社会の規範というものが伝えられてきたのです。
 それは結局は集団生活を前提とするものなのです。
 
 体力の点からは男性の方が女性よりも優位ですので男性が集団を束ねることがほとんどでしたが、しかし女性がリーダーとなる必要も出てきます。
 そのために古代から宗教的なこと呪術や儀式、色んなことが考えられそして利用されてきたわけです。
 そうしてその人物がリーダーとなることを認めさせ、信頼させることで従わせた。
 どんな手段を使ったとしても、いずれにしても信頼を得ることが必要だったのです。
 


 現代となっても本質的なことは何も変わってはいません。
 結局、必要なのは実直な態度、率直さ、正直さということに尽きるのです。
 
 すると男女二人の出逢いということになれば誤魔化しようがありません。男女の関係も集団のひとつです。
 しかし男女の出逢いに社会的なルールなど関係ありません。
 初対面で信頼を得ようとするなら宗教的なことや儀式を持ち出すわけにもゆきません。そうしたことには時間が必要になります。
 知らない者同士では肩書きも役に立ちません。
 そういうことを男性はよく分かっているものです。
 

公平さは結果

 ただこれは公平とか平等であるかということではありません。
 それはあくまで結果論に過ぎません。

 人は集団の中でもそれぞれ利己的に振る舞うものですし、それは円満な集団生活の中でさえあることです。
 
 能力や成果に対する報酬などとして分け前が平等ではなくなる場合というのはあります。
 しかしそれは結果に過ぎません。問題はそこに至る過程が実直であるかということです。集団が納得できるものかということです。
 すなわちその態度が問題なのです。
 
 納得のできる理由が説明されなかったり、ズルいやり方で分け前をせしめたりすること、そうした卑劣さは集団生活とは相容れません。
 そんなことをすればやがてその狡猾さから疎んじられるようになり、集団には受け容れてもらえなくなります。
 そうなれば彼らが集団の中で生きてゆくことはできません。
 
 利己的に振舞う中でも実直さがあるかどうか、それが一番大事だということです。
 言い換えればそれが「人として信用に足りるか」という本質になるわけです。
 それは結果論ではないものです。
 
 実直さを追求し信頼を勝ち得ることは生き残ってゆくための手段なのです。
 
 だからこうした遺伝子に刻まれた本能と言ってもいいものゆえに、特に男性は実直であるように人に対して振舞おうとします。
 信頼を勝ち取ることが生き残るのに必要なことだと本能が命じるからです。
 

実直さを追求することのジレンマ

 男性という性にはこうして実直さを追求しようとする本質があります。
 これを拒絶しようとも、あるいは何か他のことに置き換えようとしても、厳然としてある生物としての男性の本質です。

 そうして、どのように人から信頼を得るかということは現代においても大事な課題となるのです。
 なんでもない買い物にしても、犯罪の取引にしてさえ、互いの信頼関係がなければ何もすることはできません。
 
 どうせ奪い合いになりり殺し合いになると分かっているのであれば、ギャングだってわざわざリスクを冒す必要はないのです。
 そうなったら取引などできようもありません。
 取引など成立しないのです。
 どんなにいかがわしい無法の連中にしても実直さが必要なのです。
 
 それでは信頼関係をどうやって確立したらいいのでしょうか。男性によってその向き合い方には違いがあります。
 それは実直さの裏表ということになります。
 これは態度の問題でもあり相手次第のことだからです。
 
 いったいどうしたら他人に対して実直であると示すことができるでしょう。
 素直に正直に、自分の考えていることをただ素直に打ち明ければそれで足りるでしょうか。
 赤裸々な自分をそのまま有り体に見せれば相手に受け容れてもらえるのでしょうか。
 
 対人関係からすればそれはあり得ないと言わざるを得ません。
 そうした態度は他人には唐突で無遠慮でぶしつけに感じられてしまいます。押し付けがましいと思われるでしょう。
 またその「自分」というものに対する好みというのもあります。
 
 自分が実直であるよう努めているからと言って、他人に実直な態度であると受け取られるとは限らないのです。
 
 ここに本質的な問題があります。
 相手から信頼を勝ち得ることの難しさがあります。
 
 どうしたら人から自分は実直であると理解してもらえるのか。
 自分には嘘はないのに、なぜ人は自分の実直な態度に疑いや疑問を持たれてしまうのか。あるいは自分は本当に欺瞞はないのか、人によく思われようとする態度はそれを意図しているゆえに自分のエゴ、欺瞞ではないのか。
 そんなジレンマに陥ることがあります。
 
 言い換えれば「いい人を演じたりせず、真にいい人間でいたい。」ということです。
 


実直であろうとすることの欺瞞

 そうして多くの素朴な男性が悩むものです。
 思春期にもうそれは始まっています。素直な人ほどこうした悩みはつきものです。

 実直に振舞っていてもそう見られていると思っていること、そこに欺瞞がないとは言えない、嘘がないとは言えない、そんな風にして悩む男性がいます。
 
 実直さは「人当たりのよさ」によって受け止められやすくなります。しかし人当たりのよさというのは相手次第のことです。そうなると合うか合わないかは運でしかありません。
 それを受け容れねばならないのは残酷なことです。
 
 逆に、もし相手に合わせるようなことをすればそこには嘘が生じてしまいます。
 
 自分は正直にやっているつもりでも欺瞞が生じているのです。ほとんどの男性は青年の頃から悩んできたものです。
 繊細な男性がたいてい辿り着く隘路というものです。
 
 そうして、彼らが行き着く結論は「ひねくれた態度」になります。
 
 それは彼らの考える実直さの裏返しです。
 自虐的で厭世的に見え、シニカルになり、他人から距離を置いてしまうこと、つまり孤高の立場を貫くという態度なのです。
 
 まるでそれは群れを拒絶しているように見えますが、それは決して彼らの真実ではありません。
 彼らはそれが実直さの追求であると信じているのです。
 自然体であろうとし、自分自身を追求しようとするのです。
 
 いわば、正直であるためには「人から実直だと見られることにも用心する。」、それにさえ注意するという境地です。
 
 彼らは人との駆け引きを嫌い、気難しい人間になります。
 周囲には煙たがられることもあり、特に女性の群れからは気難しい男性として距離を置かれることもよくあることです。
 男性同士ではさばけていてオープンで明るい性格に見えるのに女性に対しては冷たい、シニカルだなどと女性には悪い印象しかありません。
 
 実はそんな男性こそ最も信頼できる人なのですが、たいていの女性がそれに気がつくことはありません。
 
 たいていの女性は表面的なことに目を奪われ、偽りの実直さに騙されて人の判断を見誤ってしまうのです。
 実際、ビジネスの世界でも「人事」というのは女性向きの仕事ではありません。
 女性に人を見る目を求めるのは無理があるのです。
 

女性が恋愛の王者だった時代

 最初の出逢いから本当に実直な人かどうかを見極めることは重要なことです。やがては互いの絆や信頼につながって安定した関係の礎になってゆくからです。
 
 女性から理解されにくく難しい男性と見られていること。
 そんな男性からすれば悲劇でも何でもありません。
 
 男性のヒネクレた態度の裏に実直さを見れないような女性はむしろ相手としては厄介な人だからです。
 だから彼らは黙っています。誤解を受けていても弁明しないものです。
 こうした男性は真実の相手を探しているからです。
 
 女性にとって幸いなことに、これまでの社会は男性中心でした。
 一方、家庭、すなわち恋愛では女性が主導権を握ってきました。男性は実社会で主導権を握っていたというだけです。
 男性は社会性を背景として女性にアピールをし、一方の女性は家庭を前提として安定した暮らしを見定めようとしてきたのです。
 そうして現代社会の恋愛では家庭の側から女性の見る目が試されてきました。
 しかし社会的には女性は間違いやすく、相手が真に信頼できるかどうか見極められなかった女性たちは結婚に失敗してゆきます。
 それは女性が社会進出を進めれば進めるほど多くなっていった傾向でした
 
 つまり表面的なことに幻惑されやすく感情に流されやすい女性の性です。彼らは早合点しやすいのも特徴です。
 気難しそうでヒネクレた男性はとっつきにくい、女性はそうした男性を理解する労苦を避けがちです。
 だから女性は目先のことに満足できる安直な人を選びがちでした。
 
 男性の考える実直な態度、ヒネクレた裏返しなどそんな女性たちの判定の前ではたいした価値はありませんでした。社会ではなく家庭の目線であればそうした厳しさは無用だったからです。
 女性というのは生理的に難しい人を受け付けられない、そんなところがあります。人のことを深く考えようとすることを避ける人も多いものです。
 
 そうして女性は男性に期待するものを求め、要求をしてきました。
 モノやカネなど欲しいものを求めたのです。
 実直でなくとも男性は言われるままでよいのです。まるで下僕のようにしていれば女性の欲求を満たしてやることができました。
 
 しかし長い人生からすればそれはあくまで一時的なことです。
 結局は信頼に尽きるのです。
 成熟した西側先進国における熟年離婚や離婚率の高さなど、いくらでもその脆さを見ることが出来ます。
 
 かつて女性は男性に多くを求めることができました。そして失敗しても我慢しました。
 それは妥協の産物もあったかも知れません。
 社会ではなく家庭に入った女性たちは結婚生活に満足できました。鬱憤を溜めなくて済む場合がほとんどだったのです。
 
 女性はかつて恋愛では王者だったのです。
 

ジェンダーレスによる出逢い氷河期



 しかし、今はジェンダーレスなどということが喧伝されています。
 ジェンダーとは男女の性による社会性の差という意味ですが、それを乗り越えようという一種のプロパガンダが世界の主流となっています。
 それは好むと好まざるとに関わらず年々過激化しています。

 
 しかし男女の性を乗り越えるということは、究極には性別について責任を取らないということになります。
 女性は女性らしくなくてもよく、男性は男性らしくなくてもよいとされるからです。
 そうした既成の性別の概念をジェンダーレスは拒絶するのです。
 すなわち、このプロパガンダは社会において同質性を求めているのです。そして今やそれが潮流となっています。
 このため出逢いは氷河期に入りつつあります。
 
 希望の灯火は風前のものとなりつつありります。
 いったい男女に違いがないとすれば家族はどうなってしまうのでしょうか。
 第一、すでにこれまで核家族化が進んでいると取り沙汰された頃から、男女の役割には混乱がありました。私たちはその始末さえつけられてはいません。
 とも働き、男性の育休、生理、更年期、男女の役割をはっきりさせることもないまま野放図にジェンダーレスへと進みつつあります。
 
 あるいはジェンダーレスなどと言えばセックスをどうすればいいのでしょう。セックスの中にも社会的な男女観が繁栄されたところがあるのです。いったいジェンダーレスは何をさせようというのでしょう。
 
 男女の違いによる社会性の違いを克服すると宣言し、そうした男女差があるという社会的前提をことごとく拒否しようというのがジェンダーレスというプロパガンダです。
 これはかつてのウーマンリブですらありません。女性を尊重せよということでもない。
 女性もまたかつての男性と同様に社会の歯車とならねばならないのです。
 そうして家族はその価値を失ってゆくのです。
 世の中は男女関係の氷河期に突入していると言ってもいいでしょう。
 
 そうしてこれは次の段階であるLGBTなどにも続くものです。
 「生物多様性」などを引き合いにさえ出し、LGBTというこれまで隠されてきた性的嗜好が白日のもとに晒されるようになりました。このため彼らは新たな差別をうけることになっています。
 
 女性もまた同様のことになるわけです。社会性において能力が審査され厳しい視線に晒されることになります。
 学歴も勤務成績も美醜さえ、男性と同じように評価されることになります。
 
 何より責任を取らされることになります。
 女性特有の、責任から逃れようとするような態度はもはや許されません。
 女性の生物学的な弱さ、精神的なか弱さ、メンタルの弱さなど言い訳にはならなくなるのです。
 
 そんな現代社会の歪みの中でこれからの男女は出逢いを果たさねばならないのです。
 
 当たり前の話ですが上場企業の取締役の三割を女性にするなどという目標には実際には何の意味もありません。そこには何の価値もありません。
 しかしこんな奇妙な言説が大手を振ってまかり通るようになったのです。
 
 能力のある女性を臆せず積極的に登用しようというならまだしも、結果論に過ぎないものを目標にするなどということは実に愚かなプロパガンダです。
 しかしそれをおかしいと言えない世になりつつあります。
 

むすび、それでも信頼の値打ちは残る

 ジェンダーレスなどというこんな方向性をみれば、男性の実直さなどもはや生存の条件ではなくなるのでしょうか。
 男性もジェンダーから解放され、男性としての性を拒否することになってゆくのでしょうか。
 人から信頼を得ることは遺伝子を残すための条件ではなくなるのでしょうか。

 強い者や持てる者が叩き潰し、意のままに従わせ、強制させる世の中になってゆくのでしょうか。
 
 これを新たな繁栄と言い立てる向きもあります。こんなプロパガンダに煽られた人々が目先の利益のためにそんなことを言い立てています。
 彼らはヒネクレたように見える男性、態度だけで言葉を尽くさない男性、そのの裏にある繊細さや信頼性に目もくれなかった人たちです。
 自分の能力を棚に上げて地位や給与報酬、結果の平等を要求してきた人々です。
 
 男女は平等に認められるべきだ、それで本当にいいのでしょうか。それはその個々の価値を無視するということになります。
 しかしどんな女性でも必ず老化します。歳を取るのです。どんなに美しい女性と言われても必ず老婆になります。
 ジェンダーレスの議論にこんな話が持ち出されることはありません。
 
 一方の男性の性的な魅力は生物学的に老化とはあまり関係がありません。男性は70でも80歳でも子を作ることができます。
 男性は生殖のために古くなったパートナーはあっさり放棄し、若い娘を求めてゆくのがよいということでしょうか。
 
 もう性的に興味は持てない、そうパートナーの女性に対し表明し平然と関係を解消することが実直な態度なのでしょうか。
 社会的にはジェンダーレスでありお互いに役割があるのですから遠慮はいらないのです。
 
 そうすると実直さや信頼など意味はありません。
 そんな男性の次の後釜に収まる女性はきっと外国人かも知れません。今の自分の価値を売り込める女性となるでしょう。
 いずれにせよ、彼女は自分がまたお払い箱にならぬよう男性から全てを奪おうとするはずです。
 
 麻薬取引で警戒しあうギャングのようなものです。互いの信頼などどこにもないことになります。
 「結婚とは闘争である。」そんなことを公言した正田美智子は穏やかな暮らしを果たすことはありませんでした。その邪悪な人間の人生は惨めで欺瞞に満ちてまるで地獄です。
 
 これから女性はいやおうなしに社会的責任を負わせられることになります。
 そうなれば真剣に出逢いを考える女性ほどかつての男性と同じようにヒネクレタ態度によって自分の実直さを追求しようとする傾向が進むでしょう。
 安定しない相互不信の関係しか築けず、表面を取り繕って生きてゆかねばならない、そんな遺伝子は後世に残ることはありません。
 すなわち、子供を作ろうとも作らなくとも、人間としての本質的な自己保存欲求を裏切っていることになります。
 そうした態度は人間の本来ではありません。
 
 よって、こんなプロパガンダに洗脳されなければ、自己保存本能を遺伝子に刻み込まれてきた人類として、これまで以上に互いの信頼に価値を置くことになります。
 
 気難しく社会的でないように見える、孤高で毅然としていて、ある意味で意固地に見えるような女性が増えてゆくことでしょう。
 それは実直さの裏返しです。
 人にわざわざ見せるために演じた誠実さなど欺瞞であることを彼らは知っています。
 彼らは様々な葛藤から逃げ出すこともなく、自身が恥ずかしくないよう努力する人たちです。
 
 そうやって繊細な男性たちは自分の利点や長所さえ隠そうとさえしてきました。そして社会生活での非情さとパートナーや家庭との穏やかな暮らしをともに得てきたのです。
 彼らは恋愛に苦労したかも知れませんが少なくとも人間として実直さを追求できたのです。
 彼らは安易な打算や欺瞞に自責し、人生を振り返って後悔ということはありませんでした。
 恥ずかしくない人生を送ることができたのです。
 
 これからの女性もそうやって生き残ってゆこうとするはずです。それがジェンダーレスという人間存在とは矛盾したプロパガンダからの逃げ道だからです。
 かつての男性と同じように難しい女性が増えてゆくと思います。
 それを理解してあげられるのは実直な態度があれば可能です。
 
 
 男女が互いに、まるでトランプのカードを見せないようにして真の人間性を探る、シニカルさをまとい、ヒネククレた風でその裏にある誠実さを探り合う。そんな裏表のあるゲームに恋愛が変貌してゆくのです。
 
 ただ、そんな恋愛は一部の人を孤独にさせるかも知れませんが、そうして悩むことは相手への思いやりとなり信頼となって返ってくるはずです。
 決して怖がることはないと私は思います。
 



 by 婚活係長


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