他人に対する斜めの評価
ちょっと前に私は肉やコメへの評価、その言い方というのを考えたことがあります。
それはどんな風に旨いとか味わい深いとか、その人の味わいそのものに関してではない言い方。
肉やコメへの客観的な評価というか、いわば斜めに見たような感想です。
自分がどう味わったかどうかではない、ちょっと距離のある言い方です。
「これはいい肉なんだろう。」とか、「きっと旨い肉なんだろう。」とか、「高い肉だけのことはあるんだろうな。」とか。
こんな言い方をすることがあります。
「いい肉w、旨い肉(笑)、高い肉♪」という言い方です。
そして、
「いいコメ、旨いコメ、高いコメ」これも同じように言えることでしょう。
それなら、人間に対してもそんな斜めに見た言い方がされているのではないか。
その本質は同じで、自分自身とは距離のある言い方なわけです。
「いい人、上手い人、お高いヒト」、と。
これは互いの関係を深めるのには阻害要因になります。邪魔になる。なんとかしたいものです。
他人は私たちにとっては肉やコメと同じように「味わい」があります。他の人というのは私たちとは別な個性です。それでウマが合うとかフィーリングが合うなどということになります。
その人が与える印象は人によって様々です。どんな人に思えるか、どういう性格か。
しかし客観的な斜めからの評価というのはまた別なものです。人当たりとかその人物に感じることとは違うものです。
あたかもその人への客観的な評価のようにして印象が持たれることになります。
それは出会う前から始まっているものです。他人とは最初から距離感があるのです。
それは「この人は私を好いてくれている。」とか、そんな直感や印象とは違うものです。
ごく客観的なものを装っています。
「ああ、この人はきっと世間的にはこういう人なんだ。」そういうもの。
それは距離ができてしまう要因になります。
肉を美味しいと感じる、それとは別に「これは高い肉だけのことはあるんだろうな」とか、「こういう肉がいい肉とされるものなんだろう」とか、「これが旨い肉というんだろうな」とか、そういう本人を抜きにした世間的な評価ということです。
しかし食べていてそんな感想を人に言ったとしたらどうでしょう。
この人はあまり楽しんでいないのではないか、美味しいと本当は思ってないのではないか、そんなことになってしまうでしょう。
「いい人」という評価
人のことを私たちは「あの人はいい人だね」なんて思うことがあります。
それは自分にとってどうかではありません。漠然とした世間的な評価として言っているのです。
それは肉やコメを食べた時と同じで、ハタと気づかされたような時です。
「ああこのコメはいいコメなんだ」とか、「ああ、この肉はいい肉なんだ」というものです。「この人はいい人なのだ」と。
この「いい人」という評価には、しばしば「意外と」なんてのが言葉の前につくものです。
つまりこれは「気付き」ということになります。
私たちが自分から気付かされることほど強固な確信になることはありません。
人の主張に感化されたり教えられることよりも、自分で気付くことは揺るぎない確信となるものです。
この「いい人」というのは、実際にその人に何かを頼んでみたとか、付き合いがあったとかではなく、関わることがない段階でされる評価です。
人に対する斜めの評価というのはみなそういうものです。
あくまでハタ目から見ていた場合です。まだ関係ができていない段階にそんな評価を受けるものです。
あまり関わりがない時ほど人は他人を「いいヒト」とアッサリ評価するものです。それは距離ができるということつながります。
だから恋愛では「いい人」などと言われてしまうことはマイナスだ、あまり恋愛対象とは見られていない、関心を持たれていない証拠だ、そんな風に言われるわけです。
また、自分から「私はいい人間です」なーんて、いかにもな風で言ってくるような連中には人はなかなか騙されないものです。
それは客観的な評価と実際にその人と関わることは別だということをみなが分かっているからです。
誰だって、たいていの「人物」というのは見えてしまうものです。よい部分もあるものですし好きになれない部分もあります。それが人間です。
人相や顔、目つき、服装ひとつでそのヒトの人間の一端は分かってしまうものです。
分からなくなるのは余計な舞台装置に目がいってしまい誤魔化されるからです。
ともかく、そうしてハタ目から斜めの目線で見ていると私たちは態度やちょっとした言葉遣いに注意を向けます。
「ああ、この人はいわゆるいい人なんだ」、と。
つまり、「いい人」というのは他人に対する私たちの気付きのひとつなのです。
それは人間に対する共感に基づいています。
人間としてその人は「いい人間」かも知れないという、一種の人間的な期待をしているということです。
人として尊敬できるものがあるとか、優しさがあるとか、人間らしい良い部分をハタから感じると私たちはそんな評価をしてみます。
自分もそうありたいという人間的なものへのシンパシーです。
しかし「だから何だ」ということはありません。「だから付き合いたい」ということにはなりません。
いい人だから親切にしてあげるとか、その人を優先するとかか、起用したり尊重するでしょうか。
何もしないのが普通です。
そんな評価は何の役にも立ちません。アカの他人に過ぎないのです。
役に立たない感想に過ぎません。
それはまず第一に自分に対しても「いい人」であるかの保障はないからです。あくまでハタから見ているからこそ感じることなのです。
その上、自分の方に欺瞞や利己的なこと、負い目があるとすればなおさらそんな評価は使えません。役に立たないのです。
「いい人」というのもはあくまでその人との距離があった上での評価に過ぎないのです。
「いい人」という評価の使われ方
だから、「いい人」という印象を持たれていたとしても、この評価が理由で関わってもらえるということはありません。
むしろそれは「評価された側」が使うことになります。
「いい人のフリをする」などという言い方があります。
それが自分に対する「いい人」という評価や感想のよくある使われ方です。
選挙やセールスや社交で、あるいは交渉や折衝で、約束事などで、「いい人」と思われていることを利用して人はそれを使って優位な立場に立とうとします。
彼らの方から働きかけをしてくるのです。
自分は「いい人」という評価があると匂わせ、その印象を思い出させようとすることさえします。
つまりこちらが持ってしまったその人に対する印象は相手に利用されるということです。
実際には「いい人だから何だ。」ということになるのですが、向こうから働きかけてくればあたかも根拠のように思えてきます。
錯覚してしまうことが多い。
「まあ、この人はいい人のようだから。」なんてことになってしまうわけです。
ふとした直感や気付きがあると人はそこから逃れることが難しいものです。「思い込み」というヤツです。
どうしてもこだわってしまうようになります。
しかし逆から言えば、それは単に客観的な感想に過ぎなかったことを思い出すべきです。
「この人はきっといい人なんだなぁ。」ただそう思ったに過ぎないのです。
その時、その人と自分を結び付けるものはまだ何も見つかっていなかったことを思い出すべきでしょう。
だから、そういう「気付きの罠」に陥るのを怖がって自分で考えないようにするという人もいます。
そういう人は他人を機械的に判定しようとします。
血液型や出身、職業や服装、ごく機械的に人を判断するような人がいます。
そんなことから第一印象を持とうとすればあまり自分の目というものを必要としません。反射的に世間的な値踏みが先にできるというわけです。
真正に「いい人」であるべきです(笑)。それは必ず有利に働きます。
加えてあくまで自己主張することは避け、「いい人」であることを見せようとしないことです。つまり行動で示すのです。
まずその人と関わらないところで見られるようにするのです。最初から距離があっていいのです。こちらから働きかけるのですから。
自分の背中に注がれる視線を感じるのです。
人はあなたをどこかで必ず見ていると信じるべきです。そして人間として正しくあるべきです。そういう第三者の目、彼らを騙すことはできないと思うべきです。
ただ、もしそこに唯一、欺瞞や偽善があるとしたら「自分は人がどこからか見ていることを知った上で正しいことをやっている。」そこにあるでしょう。
しかしそれが嘘でなければいい。裏切ることがなければいいのです。
肉やコメの味は人によって違います。それは「それぞれの好み」ということになります。
対して「いい」というのは客観的な評価です。
結局、肉はお肉らしく、コメはコメらしく、人間は人間らしくあればよいのです。
「上手い人」という評判
一方、「上手い人」と評価されるような場合があります。
「あの人は上手だ」、「一枚上手だ」、そんな世間的な評判というのがあります。
これもまた斜めからの目線です。明らかにその人とは最初から距離がある言い方です。
色々と世渡りが上手な人、人のあしらいが上手だという人、人付き合いの上手な人。
こういうことは私たちはたいてい人づてに聞き及ぶものです。つまり「評判」です。
私たちが直接感じたことではないのが普通です。
人から人への伝聞に尾ひれがついて一人歩きしていることがほとんどです。
そうして、
「あの人は上手だから、かなわないワ」
なんて評判が立ったりします。そこには警戒感があります。
「人から一定の評判を得ている」という人、そんな人です。
そして、「だけど、」なんて後ろに断りがついてしまうことも多いものです。
世間一般からの評判というものはその人にまつわる言わば噂のようなものです。
それはその人のブランドのようなものでもありますが、やはり距離ができています。
あくまで他人から評判ということであり「アテ」にならないと言われることも多いものです。ガッカリされることがある。
やはり人間は中身じゃないか、なーんて(笑)。
そういう人は人づての評判ですから、最初から距離があります。
警戒があり、なかなか胸襟を開いて打ち解けるわけにはいきません。
あまり言われて嬉しい評価ではないでしょう。皮肉な、関わりになりたくないようにニュアンスさえ感じてしまいます。
誰かの評判が持ち出されたり、誰かさんに当てはめてみたりもされます。
人は世間的にその人を捉えようとするのです。
何らかのフィルタがかかっている状態です。その人物との関係はなかなか見えてきません。
でも、たいていそういう世間的な評価というのは裏切られるものです(笑)。
ブランドにしてもたいていは名前負けしてしまうことが多いものです。
やはり世間の評判というのはアテにならないものです。
人を判断するのは自分でやらねばいけない、結局はそんなことになりがちです。
世間の評判だけで信じていたらカネを持ち逃げされたり、着服したり、こちらの悪評を撒き散らすような卑劣な人間だったり。
大人物と聞いていたら狭量な人間だった、とか(笑)。
結局、こういうのは情報に過ぎません。
だから皮肉めいた悪い評判ばかりでもありません。これを逆手にとって自作自演で評判を作ろうとする人もいます。
自分のことを人によく言わせたりする。
情報操作が「上手い人」というわけですwww。
しかし結局、「上手い人」というのはあまりよい評価にはなり得ません。
自分より上手だとして警戒ばかり持たれ、最初から断絶ができてしまうのが常です。
自作自演して上手い人と人から思われようとする人は自己満足だったり能力のなさの裏返しに過ぎません。
では上手い人で終わらないためにはどうすればよいか。
その先入観となっている世間一般の評判を裏切ってしまえばいいということになります。
意外とドジっ子だったり、情にほだされるなど人間的な面を見せたり。
こういうこともよくあるケースですが、たいてい好感を持って受け止められるものですす。
要は世間的な評判はアテにならないと思ってもらうことです。そうすれば改めて一人の人間として印象を持ってくれるということになります。
そうして最初の距離は克服できるのです。
「お高い人」という孤独
そして「高いコメ」や「お高い肉」と同じように「あの人はお高い人だ」という評価があります。
それはその人のブランドという意味ではありません。
その人の価値、値打ち、実力です。
あるいはその人自身が自分の価値をそう考えている、そんな評価です。
斜めの目線でできたこの距離はなかなか崩れません。その人だけ別格ということになっているわけです。
集団やグループから「のけ者」に近い扱いを受けていたりします。
「お高くとまった人」そんな風に捉えられることもあるかも知れません。
色々と高くついてしまう人なのです。
面倒な人、一筋縄ではゆかない人でもあります。正義漢であったりもします。いわば近寄りがたい人だったりします。
高潔な人物が煙たがれるのと同じようなことです。
そして「アタシには関係ない人だ」、なんて言われてしまいがちです。
悪い意味ばかりでもありませんが、関係が最初から拒絶されているようなものです。なかなか打ち解けることはできません。
また、周囲から腫れ物に触るように扱われているのが常です。お高い人なのですから。
そして周囲はその人を尊重し、礼を尽くし、せいぜい担いでくる。
知見をうかがいご意見を拝聴する。立場を尊重して役に立ってもらおうとしているように見えます。
しかしそれは勘違いというものです。リーダーではないのです。
やがては飾り物になってしまうのが常です。
みんなが嫌なことをやってくれる。
無責任な人たちがそこに付け込んできます。何でも押し付けてしまう。
しかし人との関係としては薄いものです。それは集団内でのことなのです。
尊敬されているわけでもありません。能力が認められているわけでもない。
要するにその人は自分の評価、成績にこだわり過ぎたのです。競争にこだわり過ぎたということです。
競争を嫌う人たちも多いものです。
ましてや能力に劣る人、ダメな人たちは自信がありません。だから自分のことより人をどうにかしようとします。
少しでも負けそうになるとそうして担ぎ上げ、別格に仕立て上げて逃げてしまう。そんな集団心理から出来た評価である場合がほとんどです。
「上手い人」と、自分の評判をでっち上げる人と較べるといかにも間が抜けています。
他人と自分を較べさせたり較べてきたからそんなことになってしまったのです。
母集団から体よく弾き飛ばされてしまったのです。
また、そんな人は担がれたままということもありません。
もともとは周囲はその人を疎んじていたのです。妬みや嫉妬です。
だから失敗したり馬脚を現してしまうと逆にひどく蔑まれることになります。もうその人はお高くないというわけです(笑)。
必要以上に低い評価を受けることになります。
その人の能力評価は間違っていたことになります。とんだ笑い者というわけですw。
グループの中で自己研鑽を考える人はつい周囲の評価に対して気負ってしまうことがあります。
頑張って自分の実力以上に見せようとするのもありがちなことです。それがまた人から遠ざかることにもなってしまいます。悪循環です。
属した集団が悪かったわけで、彼らをなんとかすることなど不可能です。
放っておくしかありません。
無理したり見せ掛けではなく、本当に自分を磨いてゆけばいいのです。
集団やグループに忠誠せず、孤高でいいのです。
人と群れないことです。
卑劣で劣等な人たちが自分を遠ざけようとしているのです、あえてそれに甘んじていればいい。
またそうなら「いい人」である必要もないのです。他人に気を遣うこともありません。上手くやる必要もありません。
そのうち誰かがきっと努力を認め、近づいてきてくれるでしょう。
孤高の人であれば自然体です。個人的に関係を作ることは容易です。
こういう人との距離は実はあまり問題になりません。その距離は集団とその人との距離だからです。
だからよく、難しい人とされていてもプライベートでは誰それと実は付き合っていた、知らなかった意外だ、あの人は人付き合いなんかできない人だと思ってた、そんな話になるものです。
よくある話です。
むすび、出会う前からある距離感
改めて整理してみましょうw。
肉でもコメでも人間でも、結局は同じことかも知れないということです。斜めからの評価、客観的な体裁をとった「距離のある評価」というものがあるということです。
典型的な三種に分けられると思います。
斜めから見るというのは、私たちはみな社会的な目線で人を見ているということです。
つまり自分だけの好みだけを考える場合とは違って周囲の評価も期待していたりします。
「あの人はいい人だよね。」だから付き合いたい、同意してもらい祝福してもらいたい、ということです。
関係を作ってゆくのに賛成してもらいたい、そんな動機がある場合も考えられます。
こういう評価は少なくとも距離を縮めてゆくのは一番楽です。
単に傍観されなくなればいいのですから。
その人のブランドが作られた状態です。
そんな先入観が距離になってしまうことがあります。
しかし世間の評判をあまり参考にしても裏切られることも多いものです。
情報には注意しましょうということです。
そのブランドを裏切れば距離は縮まります。わざとブランドの服を着崩したりなんてことはよくあることです。その方がカッコいい。
たいていは集団との関係で起きる評価です。人々の群れから遠ざけられている状態です。
単にレッテルを貼り、貧乏くじを押し付けようとしたり、弱い劣等な連中が競争から逃げようとするケースも多いのです。
しかし少なくとも、そんな扱いや評価を受けていても、開き直って孤高であることを平気と思っていられる人はそんな集団の連中よりは程度がいいということになります。
自分が集団への帰属を止めればその人との関係は作りやすいですし、そういう人との距離感が強く感じられるのは集団的なものが理由というに過ぎません。
しかしこちらに目が利かないのでは豚に真珠です。
真贋がちゃんと見分けられないといけません。
何でもそうですが、それだけの値段の高い理由が分かってないといけないのです。
相手に期待ばかりしても見透かされてしまうでしょう。
以上、出会う前の距離感についてお話してきました。
人間にも肉やコメと同じ言い方があります。
「いい肉、上手い(旨い)肉、お高い肉」、人間に対しても自分の好みからではない斜めからの見方、社会的な評価が言われるというお話です。
特に関係ができる前にそうした評価はできやすいものです。
それはコミュニケーションを取る前、関係を構築しようとする前の距離感なのです。
これをどう変えてゆくか、あるいはどうしたら先入観を解けるか、見られる方にも見る方にも邪魔になるもののようですが、その性質を理解しておけば相互理解の潤滑油のような役割を果たしてくれるかも知れません。
結局、人との関係は社会的な関係ではないということです。
それに気が付く前に人は社会的な評価を先入観として持ってしまうものです。
関係を人と深めようとするなら知っておくに越したことはありません。
特にそれが婚活であればそうです。パートナーになることは一対一の関係なのですから。
斜めの目線で人を評価してしまって、早合点してしまったり距離ができたまま接点を失ってしまっては詰まらない話です。