熟年の人たちの婚活が若い人と決定的に違うのは、最初から「子供を産むということはない」、その前提での婚活となるということです。
もちろん、若い人でも子供を産まない選択というのはあります。お互いに子供を作らないというカップルはたくさんいることでしょう。
率直に言って、熟年の方が子供が欲しいという前提で婚活を考えるべきではありません。
もちろん、女性の側からすれば熟年になってからの出産は危険を伴うということもあります。また、男性側にしても子種の衰えというのは歴然としていると言われます。
世界ではセレブが40代や50代で出産をしているニュースが流れますが、あれは特別なケアをしたもので本来はあり得ないことだと考えるべきです。
だから熟年にとっては、この「産まない」と言う前提は婚活に際しては揺るぎなくあるべきだと言えます。
例えば熟年のカップルが不用意な妊娠をしてしまい、健康を傷つける結果となってしまったり、不幸な子供が生まれてしまうというケースもないわけではありません。
熟年だからと言って、まだしっかりした避妊が必要な場合もありますし、子供を産まない前提での健康管理は必要です。それは確実に妊娠しないと分かるまでは重要なことです。
ただ、産まないからと言って、子供とまるで関わりがないかというとそういうことではありません。
相手に離婚歴があり、すでに子供がいたりすることがあります。その子供をどうするのか、そこのところは避けて通れないからです。
最近は婚活に際して「独身証明書」のようなものが取り沙汰されていますが、それなら相手の連れ子のことも何らかの証明が欲しいところです。
その子供は今は何をしているのか、結婚しているのかどんな職業なのか、その素性も心配です。
よくお子さんについて熟年から言われることですが「もう成人しているから関係ない」「子供は独り立ちしている」という言い方があります。その考えは全くの誤りです。
子供はやはりいればそれなりの縁故者です。全く関わらないということは社会常識ではあり得ませんし、揉める元です。
また将来、ご自分に介護が必要になったことを考えればどうでしょうか。「子供がいない」ということもまたそれなりにお互いが考慮すべき要素となるのではないでしょうか。
いずれにしても、結婚すれば子供さんが成人していようとも結婚していようともなんらかの形で縁故者となってくるわけです。
それは必ずしも「新しい家族ができる」というようないい話ばかりでもないでしょう。
もっと言えばこんな話もあります。「熟年でも結婚するなら二人だけの子供が欲しい」ということで、養子を迎えたい。そう希望するカップルもいるのです。どうでしょうか。
もちろん、子育ての負担は熟年となればたいへんな負担になるはずです。
しかしそういうケースも世間にはあります。
なぜなら、これはひとつの解決策であったりするからです。
例えばどちらかに子供がいて、もうひとりには子供がいないとなるとどうでしょうか。一方の相手には子供を育てたという経験があり、こちらにはありません。お互いにその認識の溝をどう埋めたらいいのかという感情的な問題は起こり得ます。
すでに一方の相手には離婚や死別した方との間に子供がいるわけです。そしてのその一方に子供がないとそこには家族としての感覚にギャップが生じてしまうというわけです。
だから、二人で信頼しあう関係を作るのに、二人で養子をもらって育てるということがあります。アメリカではよくあるケースです。これはあり得ない選択肢ではありません。
このことから分かることは、「産まない」という前提の限られた婚活であっても、子供という問題とは何らかのつながりを持つことは避けられない。そうしたことがあっての熟年の婚活ではないかということです。
人は子供を作るものだからです。少なくとも社会的にはそうされているのです。前回の結婚の時にお子さんが残されているという場合はよくあることです。
つまり、熟年の出会いには「子供を作る」という方向はないかも知れませんが、子供に関する問題は様々な形で相変わらず存在しているということです。
熟年や壮年となれば予期できない不確定要素が多くなります。
健康、心のこと、仕事、財産のこと。お墓のこと。
子供という問題も、そうした不確定要素のひとつとして想定すべきなのです。
それに対処できるかどうか、それを考え、備えることが必要になります。
めでたく出会って新たに結ばれる二人だとしても、熟年の婚活は前提が違うのです。
二人の価値感どころか家族を持ったその経験が違うことはお互いのスレ違いの原因になることがあります。
娘を持ったことがない、息子を持ったことがない、一人っ子だった、それさえも色々と意識の違いとなって後に影響を与える、そんなこともあるのです。
お互いに二人の新しい暮らしに対して、心の用意をしておくべきというのは、「子供を作らない前提の婚活」ということはもちろんですが、こんな見えにくいところにもあるのだと思うのです。