ファッションから流行が消えたこと
最近はあまりファッションに「流行」としての注意を向けなくなったように思います。
世の中から流行と言うものがなくなってしまった。そんな気がします。
こんなブランドが流行っているんだ、あんな着こなし方が流行っているんだ、そんなアンテナを誰も張ってないように思えるのです。
もしそれが「他人に関心が持てなくなった」という意味だったら困ります。
年齢を重ねた人であれば、なおさら人への関心は持っていたいものです。色んな人から刺激を受けるべきです。
私たち人間は社会的動物です。婚活も同じことです。人と人は互いに刺激しあって生きてゆくのです。
しかしそうは言っても、「流行というものやトレンドがなくなった。」、そんな意味だとしたらもしかしたらあり得ることかも知れません。
今のファッションから流行を感じさせることはありません。
ファッションがある種の社会的ムードを作ったり反映することはないのかも知れないのです。
一方で最近のファッションはその人物の診断ツールというものにになっているように思えます。
その人の人柄、人となりということです。
その人のファッションはその人の傾向を表しています。
着こなしからその人の人間性が見られているのです。
ファッションが人を評価するための尺度で「しか」なくなっている気がするのです。
婚活でも気をつけておきくといいかも知れません。
人と共感することのない時代
「服装で人を見られる。」、多少なりともそういう傾向というのは昔からあったものでした。
服装でその人を判断するということは昔からありました。だからこそ、私たちは人から「見られる」ということに気をつけていたものです。
しかし今のコーディネートは着こなしの工夫でもないように思えます。その人の生活態度や人間性が露骨に出てしまっているような気するのです。
「こんなカッコウでいい、こんなもんでいい。どうでもいいさ。」そんな投げやりささえ感じてしまいます。
服装に注意が払われず、ファッションが楽しまれなくなってしまったような気がします。
寂しいことですが、見ず知らずの人のファッションを見て「最近はこんなのが流行りなんだな。」なんて、楽しむことがなくなったような気がするのです。
人物評価ですから関わりのある人でなければ関係ありません。人の服装に注意を留めたりなどしないものです。通りすがりの人の人物評価をしても意味はありません。
誰も他の人を気にしない世情。「歩きスマホ」なんかもそんな現象です。
それは最近の世界の画一的な風潮が影響しているのでしょうか。
群集は群集でしかなく、それぞれの顔というものが見えません。コロナ騒ぎではみんなマスクをしていました。そして顔を、表情を人に見られないことが平気になってしまった。
かつての「流行」というのは人々にいささかでも色がついたものです。そんなものだったはずなのです。
それは画一性を避けるためのものだったはずです。
これがほとんど無くなってしまったことは最近の世界の全体主義的な流れ、そんな傾向を反映しているような気がしないでもありません。
社会の中で人と共感して生きてゆくことが難しい時代なのだと思います。
押し付けられることばかり、だから出逢いの機会も少ないのでしょうか。
ならば人と共感しようとするなら、まだ出逢いも適うのかも知れません。そう思っていて間違いはないと思います。
人の目を楽しませてくれるファッションがないのは寂しいものです。
まだマスクのままの人も多い。
マスクで人目を避けようとしているように見える人さえいます。こそこそとし、そしてネットなどではイライラと悪態をついているのでしょう。
世の中がそんな風になってしまっているということなのでしょうか。人々に余裕がなくなったのでしょうか。
流行というのは社会全体のものです。個人とはあまり関係ありません。
しかし「連帯感」までとはゆきませんが、昔は同じ流行に共感する人たちがいたわけで、彼らは少なくともお互いに孤独ではなかったように思うのです。
同じ流行の服を着ている人を見たわけです。
今はどうなのでしょうか。
実りある出逢いを求めるなら、そうした共感を探してゆくべきなのだと私は思います。
老人男性は動員で出逢いを探す
以前に「安倍政治を許さないとい」うデモがありました。またその後、安倍国葬反対のデモがありました。そこに狩り出された老人たちがいます。
そのほとんどが老人たちでした。
彼らは操られていた人々です。同じように動員された人々でした。
彼らはみな一様に老人風の貧乏臭い格好をしていて、その異様さにとても驚かされたものです。
そんなドレスコードでもあるのかと訝ったものでした。
安倍さんはウクへの疑念を隠しませんでした。彼は殺されてしまいます。そうしてゼレンスキーがいけしゃあしゃあと我が国のサミットにやってきます。その広島ではサミットに反対するデモがあったといいますから、我が国も少しは捨てたものではないのかも知れません。
どうせそんなデモがあったことなど報道されなかったんでしょうけれども。
写真を見ると、広島サミットの開催に反発してデモに参加した人たちはごく普通のファッションに見えました。普通にお洒落をしていた。
それに対してあの時、動員された安倍国葬反対の老人たちはみなが妙に薄汚い格好をしていたものでした。
みな投げやりで、そして死んだ目をして。人に見られることなど意識もしていない、だからそうなります。
彼らは実は出逢い求めて集まっているのです。老人が異性との出逢いをこうした政治動員の場に期待するというのはよくあることです。
余談ですが、日本共産党のような運動に関わる人たちと老人の男女の出逢いというのは実は密接な関係があります。
男性のほとんどが男女の出逢いがあると期待して日本共産党の活動に関わっています。
そこで男性は難しい顔をして高齢の女性たちに政治のことを講釈し理屈をこねくり回すのです。
高齢女性の方は社会参加と自己実現の高揚感を求めています。そうして意味も分からず熱心にビラを配る。
「政治動員」というのはそんな老人たち特有の出会いの場所です。
まあ、そんなお話はまた別の機会に。
動員老人と自発的デモのドレスコード
ともかく、ファッションというのはある意味では私たちには「制限」なのです。
私たちは裸で出歩くわけにはゆきません。
だからそれは決して勝手気ままということではありません。野放図ということではないのです。
しかし人は制限からなるべく自由になろうとするものです。心を解放しようとする。
すると、そんな制限との折り合いということになります。どうしてもそこにその人の個性、人としての節度、人となりというのが見えてしまうことになります。
例えば、「制服」というのはそうしたことを巧く隠してくれるものです。
制服はとても便利です。
決められたものを決められたように着ていれば個人というものは見えてきません。
人から余計な予断を持たれる心配はないのです。学生や作業者として、あるいは兵士として、やるべきことに集中させることが出来ます。
男性のビジネススーツが男性にとって同じように制服のようなものだと分かれば、退職してもいつまでもスーツ姿でいる男性のことが女性には理解できるでしょう。
彼らはスーツ姿に頼るしかないのです。
そのような男性には「人となり」というのが感じられません。どこか頼りなげでもあり、そしてどこか尊大です。
いつまでも現役時代の何かにすがろうとして生きている人なのかも知れません。
熟年や壮年となってもまだそんな人は面倒です。
それこそ、退職して人間が仕事やあくせくした義務から解放されてみれば裸になったようなものです。
そこからどうやって自分というものを律していくか、自分を保っていくか、これからの人生をどう前向きに楽しんでゆくのか、それはその人の魅力にもつながることでもあります。それが出来ないのですから困ります。
自分一人ですら人生を楽しめないのにそんな男性が相手を探したとしてもやはり同じことではないでしょうか。
世間的にはこのところに誤解があります。「出逢いを探すこと」、それは遊び相手を探して詰まらない日常から逃げ出すことではないのです。
デモの動員に話を戻せば、きっと彼らは「服装は自由でいいからデモに参加してくれ。」そんなことを言われて集められたのでしょう。
人々はわけも分からず集まっていました。それは服装で分かります。ファッションで分かってしまうのです。
普通はデモの参加者にいちいち服装のことなど言わないものです。
しかし相手は老人たちで、国葬反対デモの意味さえ実はよく分かっていなかった。だから主催者が服装について説明するハメになっておかしなことになってしまったのです。
彼らは格別の意思も主張も持たず、何で動員されているかもよく分からず集められていました。
服装にご自分の規範、自分を表現するものなどなかったのです。
だから「服装は自由」と言われたら戸惑い、遠慮してしまい、目立たないような格好になってしまったのです。
周りの雰囲気に合わせようとして逆に何もできなくなってしまったのです。
そうして目立たぬようにありがちなドドメ色の服になり、コーディネートもなく薄汚れた服装になってしまったというわけです。
「ドレス・コード」というのはそうしたものです。
図らずも彼らは動員のドレスコードに従ってしまった。まるで政治勢力の制服のようになってしまったのです。
何も言われなくとも、自分に主張があって共感し集まったというのであれば自然に余所行きの格好になります。ファッションコーデぐらいはするものです。
自分のルールの上で服をまとい、「人に見られること」、そのことを意識してお洒落をします。
そうした自分の態度を決めること、自分で自分が人からどう見られるかを意識しているかどうか、それがファッションコーデということです。
今、そのセンスが「人物」として見られてしまう時代なのだと思います。
流行というものが消えてしまった今の時代は特に。
今の時代は人々の胸の内がなかなか見えなくなりました。互いにみんなの考えていることが分からずもどかしいものです。
だからこそファッションのセンスから人間が見られてしまうことになります。
流行という枠組みがなくなった、そんな時代だからこそ自分のお洒落を追及してみる必要があるのかも知れません。
婚活であれば、初めて出逢う前から自分自身を発信しておくことになります。
カジュアル、隠すように着る自己弁明
ファッションの考え方を示すために「フーディ」を例に挙げてみたいと思います。
パーカーなどでフードを頭から被っている男がいます。たいていは若い男です。
公園のベンチに座ってサマホを見てるような人。歩きスマホでもこんな人がいます。どうにも怪しく誰にも不審感しか湧きません。
女性でやる人はほとんどいない。
たまに勘違いしている子もいないではないですが、自分は可愛いから顔を隠しているのだ、と、こっそりと咲く花のイメージとして自分を考えているようです、どうでしょうかw。
こういうのは欧米では「フーディ」と言われる格好です。
怪しくていかがわしくて、他人の視線から逃れようとする疑わしい人物の典型だとされています。惨めでそしてズルい人間だと見られます。誰も油断はしません。
欧米での暴動や破壊行為、略奪にフーディはつきものです。怪しい格好の代名詞と言ってもいい。
そのうち、フーディーが「怪しい」などと言われなくなる日がくるのでしょうか。
時代が移り変わり、混乱が続けば世間の雰囲気も変わるのでしょうか。今ならフーディーだったら日本ではたいてい職質されることでしょう。
欧米の黒人たちなどは典型的なフーディの格好です。逆らえば撃たれる人々。
でも、それはでも当たり前です。偽札を握り締めて銃に手をかけたなら黒人でなくても撃たれてしまうでしょう。それを「かわいそうに」なんて、よくもやったものです。
BLMなどと言って政治利用し、反トランプ派を押し込め、ウクへの戦争支援を国民に全く問わずに続けてきた米政権。市民は黙ってろというわけです。ましてや黒人なら。
今は黒人が再び差別されようとしています。
今の米政権は全くの独裁政治です。あれでよくまああれで「民主主義」などと言えるものです。
まあ、それはともかく、と、しておきますが(笑)。
このフード付きの服については「フードを普段は被らない」というのが正解です。
もし上からチリやゴミが落ちてくるような時になったらサッと被れる。そんな非常時の特別な用意についているものだと考えるべきです。
雨が降ってもいないのに重装備のレインコートなんて着ていたら不審がられるしかありません。それと同じです。
しかし傘を手に持っていたら雨に備えているのだと分かる。用意のいい人だいうことです。
フード付きの服もそんな、「用意」という、そんな自己弁明が隠されているのです。
そしてフード付きトレーナーだったらインナーにするのはいい。
上にジャケットを着る。フードは外に出す。
そうすることでいかがわしさを隠し、人の誤解を避けることができます。
これは要するに「カジュアル」というのは「隠す」ぐらいがちょうどいいということです。
自分は気さくな人間であるとか、友好的な人間であるとか、そんな自己弁明に過ぎません。
しかしカジュアルそのものをあまり目立たさせてはいけないのです。
そんな服装は「徒党」を想像させるだけです。古い言葉ですが「愚連隊」(笑)。怪しくて信用できない連中ということになります。
普段使いの上に上等のモノ、グレードの上のものを羽織るのがいいのです。
そうすると、とっさに用意した感じになって、まさに「馳せ参じた」という感じになります。
人は「ああ急いで来てくれたのか。」、「わざわざ来てくれたのか。」という感じになりますw。「イザ鎌倉。」w
逆だとなんだか違ってきます。
「なんでわざわざ一張羅を隠すのか、私に見せるのはもったいないのか。」、なんて感じで反感さえ受けてしまうものですw。
バレエのバーゲンがあって、妻が行ってみたところ会場は大盛況だったとか。
まだバレエ初心者のオバ様たちなのに豪華な凝った衣装を買い漁っていたと言います。
しかしオバ様たち、なぜかスタジオではみんなせっかく買った凝った衣装をまるで隠すようにして上からレオタードを着てしまうのだと言います。
初心者ですから気恥ずかしいというわけです。
これは上達したら堂々と着るのだ、そんなサイン。
一張羅をわざわざ隠す、そこには「心理」があります。
ちなみにバーゲン会場の年齢層は高かったそうですが(笑)。
流行とコーデの違い
かつてのファッションの流行というのは移り変わりがありました。時代の波というものによって色んな変化があったものです。
かつて、女性では「不景気になればミニスカートが流行る」と言われたものでした。不況下ではカラフルな服装をみんな着たがったものです。
鬱屈した気分を晴らしたい、そんな気持ちが表れていたのです。
逆に景気がいいと「地味なアースカラーが流行る」と言われたものでした。
それは生物学的な心理だと言われました。
ミニや派手な衣装でで男を誘い、つがいになって女性は苦しい不況を生き延びようとしたというわけです。
不景気では女性は自分を蝶のように着飾った。自己保存のためにパートナーを求めたというわけです。
これは出逢いの場でも言えることです。
パアッとした、いかにも派手な服装をして現れる女性は、逆にどことなく暗いところや不安な気持ちが隠れていることがあります。
そんな暗い気持ちを払拭しようと明るい服装になることがあるのです。
もちろん、出逢いの場ですからみんなお洒落はします。だからそう簡単に決め付けることも出来ません。
なかなか内面は分かるものではありませんが(笑)。
景気がよくて先の見通しが明るいと人間は周りのことを考えるようになります。
自然を満喫したくなったり素朴なことに目を向けようとするものです。むしろ街の雑踏や賑やかさを煩く感じるようになります。人間は中味が大事だと思うようになるものです。
なにしろ満ち足りているのです。不況の時に較べれば人の内面が重視されるようになります。
そうすると地味なコーデ、シックな装いが好まれる。
自分のファッションで周囲の環境を乱すことがないようにするからです。
孔雀はオスの方があのキレイな羽を持っています。羽をキラキラさせて孔雀は自慢しているように見えます。
しかし近年では男子がそんな風に着飾るということはありません。不況であれば男も着飾って派手にしていいものですが、あまりそういう男性はいません。
相手を作っても子供なんか作れない、だからパートナーなんていらない。そんな感じに投げやりになってしまったのでしょうか。
経済の法則を考えれば今は古典的な法則性に反したことが多いものです。色んなことが歪んでいるのかも知れません。
だいたい、本来なら「貧困の多産」というのが普通のことなのです。貧しければ子供を作ろうとする、それは経済的な原則だと言われます。
こういうことを考えると政府の少子化政策にはどこか誤りがあると思いますが。
ともかく、今はファッションの流行を見て景況感を占うことはできません。
もともと景気など結局は実態を掴みにくいものです。日銀短観などは単なるアンケートに過ぎません。
しかし景況感などというのはもともとそうしたものでした。
だからこそ、ファッションの流行から景気を占うことも昔ならあながち間違ってはいなかったのです。
昔なら景気がいいからアースカラーが流行しているとか、ミニが流行っているから景気は悪いのだろうとか、そんなことが昔なら言えたのですが、しかし今はもはやアテにはなりません。
捉えられるような流行がすっかり消えしまっているからです。
現在では服装のコーデは個人の心理や生活態度を表しています。それは社会環境を反映したものというより個人の心を強く反映したものになっていると思います。
ファッションに注目しても世の中のムードを知ることにはなりません。
人の自己弁明や釈明、その人の生活態度や心そのものを見ることになるわけです。
婚活に際しても相手のファッションに注目すべきです。
そんな「人の内面」というものも時には嫌なもので、見たくないものだったりもします。
人はわざわざ嫌なものを見ようとはしません。汚いものなど見たくないのです。
だから街をゆく他人のファッションはどうでもいいものとなり、人は他人をあまり見ない。ますますファッションに流行と呼べるものがなくなってゆくというわけです。
借り物と誤解される危険
もうひとつファッションに関して挙げてもいいかも知れません。
コーデでの色使いは三色までにしたいものです。「三原色」なんて言い方もあります。それはごく基本的なセオリーです。間違いがありません。
あんまり色が多彩でチラチラしてしまうのはいけません。散漫な人物に見えてしまいます。
ご本人が見られることを考えないからそういうことになります。そんな印象を持たれてしまいます。
それは模様、生地のパターンも含めて考えた方がいいものです。
よく言われることですが、だからプリント柄を使ったコーディネートというのは難しいのです。色盲検査みたいに見えてしまう失敗さえよくありますw。
ギリギリでもせいぜい三色まで。それが基本です。
そこから自分の色、自分なりのお洒落をしてゆきます。
しかし、だからって無難だろうと白黒のモノトーンに逃げるのもありがちなことですが、モノトーンも難しいものです。
「どこの葬式帰りだ」なんて失敗はよくある話ですw。
そういう「場違いさ」というのに人は敏感です。何も単なる冷やかしや冗談で言われることばかりでもありません。
第一、葬式帰りだなんて、こんな世情では冗談にもなりません。
なにしろ高齢化社会です(笑)。
合わせるならなるべく離れた色を合わせるようにしたいものです。近い色は止めたほうがいい。
紺と濃紺と黒なんて危ないのですw。
同系色なんてのは一番いけません。色のわずかの違いがかえって目立ってしまいます。
似ている同系色だったら、合わせるどころか混在している感じになってしまいます。
実際、人はそんな同系色をちゃんと識別できるでしょうか。目撃証言なんてことを考えれば分かると思います。同系色をうまく着こなすのは至難の業です。
要は同じ色ではないから「わざわざ合わせる」ということになる訳です。そこに工夫というその人なりの「表現」が出てくる。それがファッションを通じたその人となりということになります。
つまりコーデのポイントはどっかから借り集めてきたようになってしまわないことです。
借り物を着ていると思われるのは没個性と思われます。
自分の持ってる衣装の中から合わせてきたと思われなければなりません。貸衣装の人でその人となりが分かるでしょうか。借り物では「おとといおいで」ということになってしまいますw。特に婚活の場面では。
最近、「ファッションのサブスク」というビジネスがあると聞きます。
あまり上手くはいってはいないようです。
「借りてきたモノ」にはその人の生活態度やその人自身が出ません。着こなしたり、コーデをしていないのです。だから人からは相手にされない。
ビジネスにならないのも分からないではありません。
借りてきた言葉、どこからか借りてきたような挨拶、いつも通りの決まりきった印刷された年賀状、借りてきた衣装。
誰も形式的なことをまともに受け止めてはくれません。それと同じです。
能力を見られるスタイルのコーデ
もっと言えば服のスタイルの違いには気をつけたいものです。
Tシャツ、ワイシャツ、タートルネック、ジャケット、ジャンパー。それぞれの服装のスタイルに合わせたコーデというのが必要です。
これは「色」ということと同じことです。
しかも、こういう「スタイル」というのは特に個人の「能力」ということが見られがちな点です。スタイルは「制服」につながるところがあるからです。
その人の能力、それは仕事であったりコミュニケーションであったり、包容力、理解力、人間力であったりします。
退職していようが何をしていようが、世の中では能力はやはり問われてしまうものです。それは熟年の出逢いとて例外ではありません。
相手からしたら理解力がない人とお付き合いしても気苦労を重ねるだけです。
襟アリ、襟ナシ。袖アリ、袖ナシ。
例えば襟のシャツなら襟アリのジャケットには注意したいものです。
十二単でもないのです。何枚も襟のモノを重ねてしまうのはおかしい。おかしいと思えないといけません。
袖にしたってカフスがいくつもあるようなものを重ねていればおかしいですし、袖回りがゴチャついていかにも不便に見えてしまいます。
つまり能率が悪い人、効率性に欠ける人ということになってしまいます。
スタイルの着こなしはその人の能力を暗示するのです。
では夏場はどうかというと、シンプルすぎる服装はあまりに無用心です。都会ではいくら猛暑でも涼しいところはあります。気温差を考慮しながらファッションをどうするかはみなが腐心しているものです。
例えば、どんなに暑くても素肌にワイシャツというのはいただけません。
いったいその汗まみれになった臭いワイシャツをどうするというのか。
「いかにも不便なように見える格好」、こんな服装からの人物評価はまんざら間違いでもないのです。
行動するのに不便そうな服装の人は能率が悪いものです。能力に劣る。
落ち着ける居場所がなさそうで、キョドっている印象さえ受けてしまうものです。
所在のない人、根無し草、移民、そんな人は信用されないのが普通です。
人の格好、スタイルが妙に気になる場合があります。ファッションから直感が働く場合があるのです。
それはその人の第一印象にさえなってゆきます。そうして「色々と無理のありそうな人」ということになってしまうというわけです。
婚活では避けたい印象です。
そもそも、ファッションにおけるそれぞれの服のスタイルというものは、それぞれ独立してデザインされているのが普通です。
何にでも合うものを作っているつもりでも、やはりそのスタイルには主張というものがあります。
シャツやジャケット、たいていが独自にデザインされています。
後はお好みでコーディネートしてくれということです。
だからそコーデというのは難しいものです。それが私たちの楽しみでもありますが。
それぞれのファッションスタイルの特徴を考えて合わせないといけません。
一方、だから、スーツという揃いが世間的には用意されているわけです。
それは買えばそのまま着ればいいようになっています。
「お仕着せ」なんて言葉もありますが、少なくともスーツは借り物ではありません。買うものです。
何度も着て、そうしてだんだんと自分のものにしてゆくものです。
コーデするのが苦手な人は仕事ならスーツに逃げるのが普通です。社会生活に慣れてない人、まだ熟達していない人はスーツで済ませれば無難です。
世間もそういう目で見てくれるかも知れません。
熟年ならそうはゆきませんが。
若いうちはそうでも、やがてちょっとずつ着崩すことを覚えて仕事にも慣れてゆく。社会にも慣れてゆくのです。
しかし今度は退職後となるとどうでしょう。いつまでもスーツ姿でいる旦那にうんざりさせられている奥方は、彼が無能であったことをまざまざと見せ付けられることになります。
退職してまでお仕着せに頼らざるを得ないなんて、と。
熟年離婚の「あるある」の原因のひとつかも知れません。
「オートクチュール」と言って、上から下までデザインされているのを着ているようなセレブにはファッションのセンスなど関係ありません。
彼らはお仕着せを着ているだけです。「吊るし」でないというだけ。
それはハレの舞台のために用意されたものです。一回着たらタンスの奥です。コーディネートもしようがない代物です。彼らのファッションは参考にはなりません。
裏にはちゃんと報酬をもらって主人公の特徴を引き立たせるスタイリストがいるのです。
そういう能力がある人がやっています。
すなわち、ファッション・コーデというのはお金の問題ではないということです。自分自身、すなわち自分の能力を見せるものでもあるのです。
丈の揃いは身の丈を表す
短いものから長いコートへ。
サイズの違うものをどう合わせるかということになります。これは重要なポイントです。
でもそれは丈がちゃんと揃っているからどうだとか、そういう意味ではありません。
その本質は、あたかも自分のために買ったように見える、「まるであつらえたもの、新調して揃えてきたように見える」というのがポイントなのです。
自分のために自分が買い求めたように見えないといけません。
だから丈、サイズというのは重要なのです。
「自分の面倒が見られる人」というは信用ができます。
誰かの指示をいちいち受けたりしない何もできない人には不安が伴います。
それがお下がりや誰かの借り物というのがカッコ悪いということの本質的な理由です。
支給品のようでも困ります。そういうのは論外。そのままズバリ、「お仕着せ」という言葉があるのですw。
制服が相応しい場合というのはその場所や必然性があってこそです。
制服を着ていて胸の内が詮索されないというのはその場所においてのことに過ぎません。
学校でもないのに制服で居続けるのはやはりおかしい。高校生だってどうかということになります。
この子は果たしてまともな大人になれるだろうか、そんな不安を感じてしまうものです。
作業着やユニフォームでプライベートを過ごしてしまうのも同じことです。まるで笑えません。
ジャージ姿が笑われるのは別にダラしないからではないのです。どっかしらお仕着せを感じてしまうからです。
それはママからの? あなたはコドオジ? なーんてことになる(笑)。
要は身分相応ということです。身の丈が合ってないことは自身の自覚の欠如ということにつながってしまうのです。
だからとりわけ丈や寸法と言うのは大事です。
お仕着せだなんて、「いったい誰にぶら下がって生きているんだ」、そういうことになってしまうというわけですww。
貸衣装というのは昔からありますし、今で言えばそれは洋服のサブスクリプションなんでしょうが、やはり「借り物」というのがバレてしまうとみっともないものです。ただし貸衣装には「臨時」という言い訳がありました。
そこへいくと「洋服のサブスクリプション」というのはビジネスとしては疑問です。そこまで借り物であることが果たしてどこまで開き直れるでしょうか。
聞けば女性向けのサブスクの場合は上手くいっているケースもあるとか。
どうも女性はそうしたところをうまく隠せるもののようです(笑)。だからサブスクビジネスも成り立つ。
そこは婚活なら男性の側は気をつけるべきところかも知れません。女性には上手なところがある。整形して平然としていたり出自さえ隠す人もいます。
自分の身の丈を理解しているかどうか、それはその人の安定感ということにつながります。
自分の実力以上に虚勢を張るような人は危ないのです。信用できません。
失敗すると今更のように打ち明けてくるような人がいます。虚栄心のために無意味にカネのかかってしまうような人がいます。破滅がつきまといます。
結局は他力本願な人でもあります。
調子に乗って浮わつくような人には必ず落とし穴があります。婚活では怖い相手でしょう。
自分の身の丈を理解できていれば所作にも不自然なところはないものです。服装も同じことです。
そういう人がサイズ違いで服を引きずってしまうようなことはありません。転んだりツマづいたり、そんなことにはなるはずもないのです。
まだ若いのであればまだ仕方がありません。「身の丈」という自分の領分が分かってない人もいます。ガムシャラに向かってゆくしかない。
だから若い人はいつも一か八かになってしまいますが、それを熱意でどこまでカバーできるかどうかという問題です。
しかし若いならともかく、年齢を重ねれてゆけば身の丈に合ったものは必須です。
コーデで服のサイズが合っているかは重要なのです。これは人物評価の基本かも知れません。身の丈を知っているということは。
夏服などは特にこういうものが目立ってしまうものです。
少なくとも、工夫をしている人は身の丈が分かっている人だと言えます。
昔はたいていの歌手やタレントの衣装は貸衣装ではありませんでした。
それは彼らの存在証明でもありました。
「自分であつらえるのでなくてどうする」、そんな話になってしまったのです。
カラダのサイズにちゃんと合わせ、わざわざ買ったという感じに見られないといけませんでした。でも、実際にはそうでもない場合は多くありましたw。
たった一つの組み合わせのために服なんか買ってたらキリがないのです。
だから、そこをそんな風に演出した。それがスタイリストの出番ということです。
スタイリストはコーデをしてくれ、タレントの個性を引き出してくれます。身の丈が合わないことまでカバーして隠してくれます。
しかし、私たちがスタイリストを雇うことなどできません。
私たち自身が自分のスタイリストでなければならないのです。
ファッションはその人らしさ
ファッションコーデの本質というのはその人らしさを表すということです。
逆に言えばその人の人となりが他人には分からないような格好では困るということです。そうでないと不審者になってしまいます。そうなれば肩身も狭いw。
「自分はこういうコーデが好きだ。」、それでは答えになってないのです。子供ではありません。大人であれば説明できなければならないのです。
一瞥して、いったい何ができる人なのか、どんな人なのか、何かをやってきた人かが想像つかないようでは困るのです。
そうして、そんなことが相手に分からない場合は得体が知れないものだから、人々は短絡的にステレオタイプに当てはめがちです。年齢や出身、職業、美醜、歯並び、姿勢、などなど。
それは一方的な印象です。
偏見で決め付けられ、先入観から入られるのはまるで当人には楽しくないものです。婚活であればどうにもなりません。
暮らしも楽しみちょっとした贅沢もしてちゃんとしっかり生きている。そんな人が普通に好ましい人です。選ぶべきパートナーです。
人生を楽しんでいる、話せる話題もある。
そんな態度。そんなフリさえできないといけませんw。ファッションは口を開かなくても雄弁に語ってしまうのです
私たちは服装を通じて知らず知らずのうちにそうした対話を社会としています。
ファッションは結局は社会的なものなのです。
ちょっと前のこと、「半額シールのモノなんて買ってるのを人に見られたら恥ずかしいだろう。」なんて旦那様に叱られたという奥様の記事を見ました。
そういうことに気を使うような旦那様というのは中身が見られません。きっと人と同じでないと不安がある人なのでしょうw。
自分というものがないと不特定多数に所属している自分を意識します。人目がやたらと気になります。そのくせ自分を表現することはしない。大勢のやってることに紛れて隠れようとするだけです。
そうなるとコーデも自分を意識したものではなくなります。
そういう旦那様はきっと古着なんて着こなせないでしょう。
昔はそんな人は三越で買ってたものですw。今は青木w。
そして今は「濡れ落ち葉」、そして「熟年離婚」となるのでしょうかwww。
歳をとればもうお仕着せのものなどもはやどこにもありません。
ファッションと言うのはそういうものです。ファッションは常にフレッシュな人たちに向けられるものだからです。歳をとっていたら「分かって」いなければなりません。
服を作る側にしても、いい歳をした人にわざわざ、ということになります。熟年向きや壮年向きの服などなかなか出してくれません。
今、この迷える世の中でさえ、熟年や壮年のためのブランドやスタイルがあるでしょうか。
あってもいいはずなのに熟年のためのファッションブランドなんてほとんどありません。
あっても成功しないでしょうが、熟年ともなればやはり自分で服装ぐらいきちんとできてないとおかしいのです。ファッションメーカーにもそんな前提があることがよく分かります。
それにだいたい、年齢を重ねてゆけば人の生き様は多様過ぎるのです。
お仕着せや流行で熟年の彼らを引っ張ってゆくことなどできません。
だから熟年のためのファッションブランドなど成り立たないのです。
人は人から見られるもの
最近はリサイクルショップやリサイクルのチェーン店を利用すれば、いくらでもいいものが安く買えるようになりました。
それをどれだけ活用できているでしょうか。特に熟年の方には難しいかもしれません。
脱いだ後の体型はともかくとしてww、ファッションのセンスで国際的に定評のあるパリジェンヌたちはみな街を歩く普通の人々です。彼らはみな古着やリサイクル品でコーデしているというのは有名なお話です。
彼女たち若い娘はブランド物などまるで着ない、これは有名な話です。それがファッションの華の都パリの名を高めています。
ファッションリーダーとして彼らパリジェンヌたちの姿は世界の雑誌を飾っているのです。
彼女たちには工夫があり、自分の個性を見つめようとする努力があります。
そうやって彼らは自分を鍛えてきたのです。
そんなちょっとした自分の見せ方、その楽しみを知ってゆくことで人間として成長できるのです。
だから歳をとっていればそんなものは簡単、できて当然ではないかということになります。他人からはそう見られることになります。
逆から言えばコーデが自分で出来きていれば人間として成熟しているということになります。
熟年の婚活のポイントかもしれません。
それができていれば人として最初の評価や第一印象で困ることはありません。
もっと今のうちから古着やリサイクルを活用してもいいと思います。もし若いなら尚更のことだと私は思います。
それにしても、いったい衣装が家族からの借り物のように見えて何がまずいというのでしょうかw。
それは友人や兄弟、家族がいる証拠ではないか。みなが彼をパーティーに送り出してくれたのかも知れない。それがどうしていけないのか、と。
アットホームではないか。家族的でいい感じなはずだ、と。
そんなことにはなりません。絶対にないw。
結局は自分で自分の面倒を見れない人ということになってしまうのです。
周囲の人から足の引っ張り合いがあるかも知れません。コドオジ、コドオバかも知れません。
家族関係を色々と抱えている人ということにもなります。
しがらみの多い人は熟年の婚活では避けたい人です。
人たちはこういう目で人の家族や周囲さえ気にしています。
相応しいかどうかが見られているものです。そんな社会の目というのはあります。
ところが、我が国ではそんな「社会の目線」というのは割と隠されています。
「人を色眼鏡で見てはいけない」と、まるで人権やタブーのようにして、それは日本人らしい優しさでもあるのでしょうが、実は陰ではしっかりと値踏みされているものです。
世間というのは冷酷なものです。
だから若いからと、ズボンの後ろから長財布なんて見せていたらダメです。茶髪などもっての他なのです。
やってる彼らにはマズい理由が分からないのではありません。根無し草であるゆえに茶髪や金髪にしておかねばならないのです。何らかの強迫観念があるというだけです。
それはタトゥーをしているような人にしても同じこと。
いつか人生のどこかで同調圧力に負けてしまったのでしょう。自分からわざわざ自分にレッテルを貼ってないと落ち着けなかった人たちです。
人というのはそれを必ず見咎めるものです。
かつてはブランドというのはそのまま流行でした。
しかしもはや古臭いだけじゃなくて勘の鈍い人に見えてしまうものです。
そんな流行はとっくに終わっているからです。
そんなブランド志向ばかり目立つ人はどう見えるでしょう。
熟年ならきっとデパートで熱心に売り込まれて素直に言うことを聞いてしまったのか、ウカツな人にさえ見えてしまうものです。やはりブランドの流行というのはなくなってしまったのです。
「Vネック」だってもはや時代遅れ。
それを言うなら今ならタートルネックでしょうかw。スタイルの先は分かりません。
こういうのは理屈では説明のしようがないことです。
過ぎてしまったスタイル、その廃れた原因は説明しようがないのです。
しかし誰もが見てもそれは終わっているのだとは分かるものです。
それが分からないようでは困る。勘が働かないようでは困ります。結局、それは「世間からズレした人」ということになりかねません。
「有名人」の定義というものでよく知られた言い方があります。
それは、
「有名人とは、有名であることをもって人に知られている人のこと。」
というものです。
つまり、もし誰もが知らない人がいないはずの人を「知らない」、そう言ったとしたら、そんな人はちょっと世間からズレた人ということになってしまうのです。
よくも悪くも、あまり世間を知らない人ということになります。まあお笑いタレントなど知らなくてもまるで構わないでしょうがw。
ベルサーチもアーノルドパーマーも死んでいます。もう終わってしまいました。
そうしたブランドというのは流行り廃りがあります。
実は流行とはもともとそうした浮き沈みの波を前提としたものです。
熟年の私たちも歳をとり、若い頃からそうしていくつもの波を経て生きてきたのです。
余談になりますが、もし、こういう時代を越えたファッションの革新を近年ひとつ挙げるとすれば、「男の白いソックス」というのがありますw。
かつて、成人男性がいい歳をして「白いソックスを履く」なんてことは絶対にあり得ませんでした。たとえカジュアルでも昔なら決してあり得ないことだった。
これはマイケル・ジャクソンのおかげですw(笑)。
彼がいたから今の我々は、それこそ熟年でさえ成人男性が白いソックスをジーンズの下に履けているのです。
むしろ今、薄手の靴下なんて「オヤジソックス」などと嫌われてしまっているぐらいです。
それはフアッションの小さな革新だったと私は思います。
ファッションについてのあれこれ、今回はこのへんで(笑)。