社会的には「男子と女子」と言うべき
「男子と女子」という言い方があります。言葉は注意して使わねばならない時が往々にしてあるものです。
「男子、女子」という言い方はニュートラル、中性的です。
「男女」、「男性、女性」、そんな言い方よりも中立的でスッと入ってくる。
「女史」なんて言い方があります。高い教育を受けて知能の優れた女性への呼称として使われます。
これなど中立的でない言い方で引っかかる。
私は知的差別感を感じてあまり使いません。それは男女差別に通じます。
だいたい、馬鹿かどうかってのは知識や知能の問題ではないのです。「福島みずほ」なんてのは東大主席卒業です。
くどくどしく説明はしませんが、知的コンプレックスがある女性で資格なり試験なりを得た人、そのためにプライドばかり高い人がいます。
そんな人が「女史」と言われるのを好むようです。
男性の方の側もやれやれ面倒臭そうな人だ、と、まるで嘲笑するようにそんな人にこの言葉を使ってあげる。
結局そんな女性は「ジェンダーの奴隷」として生きているわけです。
別に私は「反差別」なんてことを特に意識はしませんが、人間で「頭がいい」なんてことはあまり役に立たないものです。
またどんな状態をそう言うのかも定かではありません。
賢い人ほど罠にかかることがあります。バカほど正直で信頼できる。
そういう社会の風潮に流されて、自分というものが分からなくなっている女性がいます。
最近の風潮も重なって社会ばかり意識している人がいる。
声ばかり大きな女性が社会の方ばかり意識して騒ぎ立て、その結果、男女に断絶が起きているのです。
そうした女性の権利ばかり言い立てる女性が結果として女性全体の立場を貶めてしまっている、そんなことがしばしば見られます。
これは男女にとって不幸なことです。
男女が対立してしまいがちです。
性の意識が歪になりがちなのです。
これは「男性や女性」などという言い方をしているためです。
男性や女性という言い方をすれば「性」というものが当然意識されてしまうものです。日本語は漢字の表意文字がありますから一目瞭然。
つまり「セクシュアリティ」です。
そうして挙句の果てには「ジェンダーの克服」なんていい加減な話が出てくる。
特に最近は女性側に偏ったジェンダーの議論になります。
こんな風潮は間違っているのです。
もし社会的なこととして論じるというのであれば、まず「男子と女子」という言い方にすべきなのです。
性別は社会的なことではない
そもそも「ジェンダー」という社会のことを論ずるのに「性」の認識が必要でしょうか。
現在の風潮は間違っていると私は思います。
性とはプライベートなことだからです。
例えば医療にしたって個人的なことです。それはプライベートなこと。
男女によって治療が違うこともあります。「女性に多い病気」、そうした言われ方は普通です。婦人科なんてのもあります。
そうした言い方は差別でも何でもありません。
そもそも、どこを悪くしたなんてプライバシーの問題なのです。おいそれと人に知られていいことではありません。
それはLGBTなんてのも同じ。
「ジェンダー」などと言われることで性がことさら社会的に意識されることは間違いです。
性を社会的に捉えようとすることは間違いなのです。
プライバシーに社会が土足で入り込むことなど許されない。
あるいは性とは家庭のことです。性生活のことです。夫婦やカップルの話が中心でしょう。
そこに社会の目が入り込んで健全な家庭が出来るでしょうか。
「性」が社会的なこととして扱われるのは危険です。
それはかつてのユダヤ人狩りみたいな話。
あの当時は割礼しているかどうかを確認するため、ユダヤ人男性のパンツを脱がせて陰部を確認するということをナチスがやったのです。
社会的問題として性別を取り沙汰するのは間違いです。
だからもし男女平等を論じようというなら、「男子と女子」としなければいけないのです。
それは子供の扱いと同じです。
なにしろ性別で分け隔てしようというのではないのです。生物学的に違う両者を社会で平等に扱おうとする議論なわけですから。
それにしても最近の性別を否定までする論調は愚かさの極みです。気が狂っているとしか思えません。
医学や科学すら否定しようという連中までいますから恐ろしい話です。
女装趣味の変態が女子トイレを利用できるというのです。
男性は子供は産めません。
そして女性は相手が男性でなければ妊娠して子を産むことが出来ません。
なんで「自分は女性だ」なんて自己申告するだけで社会がその人物を女性として扱わねばならないのか。
気が狂ってる。
それはともかく、そうやって社会における男と女の役割や立場、ジェンダーの克服、そんな議論をしたいというのであれば「男子女子」という言い方をする必要があります。
そうすれば中立、中性的になるからです。
それは「身体的特徴」だけで区別されるものです。「ついてるかついてないか」ぐらいの話。
子供が産めるか、あるいは子種なのか、そうした「身体的特性」ではありません。
いや、身体的特徴さえ薄いかも知れません。
なにしろ、それは子供に対して常識的に使われる言葉なのです。
子供に向かって「女性」とか「男性」なんて言ったりはしません。
そんなことを言う人がいたら気持ちが悪い。幼児性愛者の変態かも知れません。
男子と女子。
子供にはまだ性徴がありません。身体的特徴にしても性別ごとの特徴はまるで薄いものです。いわば虫みたいなものです。
そうすると、ただの「戸籍上の男女でグループ分けをした」というだけになります。
それはあくまで便宜上のグループ分けです。
ひとりの独立した性的なものを伴った一人の存在ではありません。
母となる可能性を持った「女性」とか、そのパートナーとしての「男性」ということにはなりません。
子供の男子と女子、どちらも性的対象となる可能性はないのです。
社会が性的なことに土足で足を踏み入れるという愚は避けられます。
「ジェンダーの克服」というプロパガンダ
「ジェンダーの克服」
社会として男女の差を埋めたい、それが社会にとって新たな可能性を拓くかも知れない、そんな議論があります。
それはジェンダーの克服が社会課題だという問題意識です。
いや、しかし、これは検証のされてない希望的観測に過ぎません。
高齢化して閉塞した西側世界が新たな社会的な課題として「ジェンダーの克服」というスローガンを打ち立てたに過ぎません。
これが現代社会において男女差を埋めようというスローガンの本質的な動機です。
閉塞したこの現代社会で限界を打ち破ろうとし、もがいた挙句のアイディアだと言えるでしょう。
それが正解かどうかは議論はされていませんが。
仮にこれを是とするとしても、実際には社会で男女の区別があることには問題などありませんでした。
男女に差があるのは当然のことです。一目瞭然です。
ただ男女によって社会的な差があることは問題である、そんな前提をしているだけに過ぎません。
「男女の差で苦しんでいる」などと徒に取り沙汰しているに過ぎないのです。
社会的な課題として当たり前のこととしているのです。
男女に差があることを問題をとし、社会的に共有できる問題だと解決しようとしてるわけです。
しかし実際にそんなものがあるでしょうか。
私たちの社会がジェンダーによる問題を抱えていたわけではないのです。
実は単なるコジツケです。
つまりプロパガンダに過ぎません。
しかしそれでもやってみたい。私たち現代社会としては男女の差を埋めたところに何かの打開策を見出したいというわけです。
それがプロパガンダというものです。
謂わばそれは宗教のようなもの。
実験のようなものです。
ここではその是非まで論じようとは思いませんが。
そこには危ういものを私は感じますが、どうやら誰も責任を取るつもりはないようです。
西側の人々はそれでいいらしい。
そうして「ジェンダーの克服」、と、みながこの判然としない目標のようなものを共有するようになったというわけです。
私のように疑問を呈する人間は少数派です。そして無視される。
みなが「ジェンダーの克服」というプロパガンダを受け容れているのです。
中立的な議論をすべきである
しかし、これに取り組みたい、ジェンダーの克服をしたいというならそれは「人間存在」に手を付けることではないはずです。
人間としての生物的な特性を否定することではありません。
それでは女性が子供を産むという人間性を否定することになりますし、そんな権利はどんな権力にも決してありません。
余計なバイアスがかからないよう中性的な捉え方が必要なのです。
それは「社会集団に関すること」なのですから。
そうすると、社会における男女のグループは「男子と女子」という言い方で言い表すべきことになります。
それは学校のクラスにおける男女のグループ分けと同じ。
クラスで二つに分けられたグループの差を埋めて何か新しいことをしてみよう、そんな考え方になります。
そんなものなのです。
もともと「ジェンダー」というのは社会学的な概念に過ぎませんでした。
あくまで学問的な興味でしかなかったのです。
社会には男女という生物学的に異なる二つのグループがあって、その社会における位置づけは明らかに異なっています。
これを社会学者は「ジェンダー」と呼びました。
「男女によって社会的な扱いに差がある」そんなことに彼らは関心を向けたのです。そうして議論をしようとしたわけです。
これを日本語では「性差」と言います。
それはいわば学術的な関心に過ぎなかったのです。
どうしてほとんどの社会は男性中心のように見えるのか、とか、なぜ女性の権利が歴史的に制限されることが多かったのか、とか。
本来はそうした研究でしかなかったのです。
それはあくまで学問的な好奇心に過ぎませんでした。
選挙権や市民の権利など、男女での制度的な格差は近代ではほとんどなくなりました。私たちの現代社会で男女の扱われ方の差による問題などなかったのです。
これをいきなり「ジェンダーの克服」などとスローガンにした連中が現れます。
教条主義によって権力を得ようとする勢力が出現したのです。
こんなスローガンを率先して振りかざすことで他者を攻撃した。そうして「男性中心主義」などと、既成の秩序を非難さえし始めたのです。
そうすることで他者に優越することができたからです。
いわく女性は迫害されている、いわく女性は権利を侵害されている、いわく女性は圧政の下にある、と。
最近では米国の民主党や、その大統領候補だったカマラ・ハリスなどが張った主張が特徴的です。
彼らは女性の権利を利用して票を集めようとしたのです。
しかしそのどの主張も事実ではありませんでした。
権力を握りたい連中がこのようなロジックを使ったに過ぎなかったのです。
その証拠にモスリム、イスラム教は男性が女性を支配するための宗教です。しかし西側世界はこれを問題にしていません。
また日本は昔から女性が実権を握る女系社会でした。権力があるのはむしろ女性の方だったのです。
いったい「ジェンダーの克服」はどんな問題意識だというのでしょう。
銃撃されていちやく西側のヒロインとなった「マララ」も、女性の権利が著しく制限されていると言われる母国イスラム社会では厄介者です。
秩序をかき回すだけの欧米の手先、扇動者としか見られてはいません。
イスラム圏の女性たちはイスラム教の下で平穏を得ているのです。
結局、「ジェンダーの克服」とはプロパガンダに過ぎませんでした。
それは極めて政治的なものです。
しかしそのために先進国では男性と女性とのあいだに軋轢が生まれるようになってしまったのです。
その当の先進国は実は植民地主義や支配的な動機から「ジェンダーの克服」を振りかざしたに過ぎなかったのですが。
中立的な議論ができなかったのも無理はありません。
しかしそれでは議論の本質とは違うのです。
学術的関心がプロパガンダに
「ジェンダーの克服」、そんな議論をしたいというなら「男子と女子」とすべきです。
例えば痴漢対策として女性専用列車ができたわけです。
なぜ痴漢対策が女性だけに必要なのでしょうか。
公平ではありません。
痴漢を性的な嫌がらせとすれば、女子たちがブサメンを唾棄するかのように眉をしかめて見てしまうこと、そんな態度も立派な性的な嫌がらせです。
なぜ男性は女性から「キモイ」と言われても黙っていなくてはならないのか。
女性が男性を「キモメン」と言っても問題にはなりません。女性を「ブス」と言ったらとたんに問題にされます。
男性は「ハゲ」と言われても甘んじて聞くしかないのです。女性に髪が薄いことなんか言ったらとたんに泣き出して騒ぎになります。
「女性に美醜の価値観を押し付けてはいけない」、そんなスローガンがクチやかましいメディアで、女性タレントが自分がイケてることを自作自演でアピールしています。男性タレントにそんなことができるはずもありません。
この差は克服しなくてよいのでしょうか。
「ジェンダーの克服」とはプロパガンダですから、そんな矛盾など無視されてしまうのです。
そうして話は歪んでゆきます。
今は「ジェンダーは克服すべき」とのスローガンが疑義されることもなく、大手を振ってまかり通るようになってしまいました。
しかし別に男女の違いを埋めることで何か生産的になるかなど約束も保障もされてはいないのです。
こんなプロパガンダを利用して権力を得ようとする連中がいたに過ぎません。
しかしこうしたことは現実に影響を及ぼします。とりわけ男女の関係にとっては危機となりました。
まさに危険なゲームでした。
ただの学術的関心だったものが、まるで克服されねばならない課題であるかのように定義され、独り歩きするようになってしまったのです。
なぜ男女の差は克服せねばならないのか、その答えはないままです。
なのに男性と女性はお互いに過剰に意識させられるようになってしまいました。
効率的? 生産的? なにも証明はされてません。
ある心理学者はこのジェンダーの克服の必要を説明しようとしてチンパンジーとボノボの比較をする始末です。
人間社会がチンパンジーやボノボから演繹できるでしょうか。
まさしくペテンなのです。
そうして挙句の果てに、オリンピックで女性と自称するオトコが恥ずかしげもなく対戦相手を圧倒してメダルをもらう異常さ。卑劣なスポーツに対する冒涜がまかり通る。
心理学者はこれには黙ってる。見ないフリです。
私たちの経験からすれば女性が権力を握ればむしろ歯止めが利かなくなることが多いものです。
歴史的にも女性が権力の座について絶対のチカラを握ったために多くの混乱と悲劇が起きています。
男女が共存できる社会?
共存していたから私たち人類という種が生き残ってこれたのです。
つまりこの理屈はまるで意味不明なのです。
しかしそれはともかくとしても、です(笑)
この幼稚なプロパガンダをたとえ認めるとしても、そんな話です。
百歩譲って、もしどうしてもこんな議論をしたいというのであれば、「男子と女子」として考えるべきだということです。
それは子供の世界の話と同じです。
それがプロパガンダを乗り越える方法です。
身体的なわずかの特徴によるだけの区別、戸籍上の男子と女子に分けられたグループということです。もちろんそこにLGBTなどありません。
人間には男子と女子しかいないのです。当たり前のことです。
「女子は料理を担当して」そんな言い方をされてクチをとがらせる人はいないでしょう。
しかし「女性は料理担当です」なんて言われると違うでしょうか。
「まるで女の役割は料理だと一方的に押し付けられている」、そんな抗議がとたんに飛んでくるはずです。
子供の頃の学校のクラスを思い出せば見えてくる
子供の世界では性行為や性的パートナーが意識されることはありません。
男子には精通もなく、女子には生理もない。
しかし名目的に分けられた中でも、人間は互いに向こう側のグループを意識し、こちらもまた一方のグループを意識します。
「ジェンダーの克服」とは、そうした群れの関係として何かよい仕組みは作れないか、それを考えるという議論です。
実際、私たちは男子と女子で分けられて子供時代を過ごしてきました。
例えば女子たちは男子を小馬鹿にする傾向があったものです。
一方の男子は女子たちの中からお気に入りを見つけようとしました。
それは女子たちには許せないことでした。彼らはグループとして男子よりもまとまっていました。
その結束を乱されないよう女子は男子を敵視さえしたものです。
「ウチのクラスは男子と女子は仲が良いよ。」
こんなことを子供たちはわざわざクチにしたほどです。
一方の男子の中では男子同士のせめぎあいがありました。誰がリーダーとなるか、実社会の権力闘争のようなものが早くも見られました。
女子にも群れの中での序列はありましたがあまり目立つものではありませんでした。仲間でないとなれば女子の中で疎外されただけです。
特定の男子と女子が仲がよいことは女子の集団では好ましくありませんでした。
女子にとってグループの中で孤立することは辛いものです。
さて、それをどうやって運用するか、です。
それが教師の役割ということになります。
男子と女子に分けられたグループ。この二つの関係を調整してクラス全体のクオリティを高めるにはどうすればよいのかということです。
みんな仲良く。
しかし仲が良いからってクラス全体の成績が伸びるわけでもありません。
どうしたらよいのか。
みんなが平等に。
これも間違いが多かったものです。
給食を食べるのが遅い子供は残されました。これは今からすればとんでもない虐待です。
特に女子の中には居残りをさせられて無理やり給食を食べさせられる、そんな子が必ずいたものです。
誰でも食べる速度や量には差があるのに、とにかく同じように給食を食べるようにと教師から強制されたのです。
男子はどうだったのか。
そんな子はあまりいませんでした。
嫌いなものがあったり、もう食えないと思ったら男子は机の中に隠してしまったりこっそり捨ててしまったのです。
男子は反抗的で女子よりも要領がよかったのです。
男子の中にはそういう要領の悪い女子を助けたいと思う子もいました。しかし男子と女子に分かれている以上はなかなかクチを出すことは出来ませんでした。
助けてもらえた女子はそうはいなかったでしょう。
男子と女子、それぞれがまとまっていたりバラバラだったりしたものです。
お互いのグループがどんなものか、お互いに様子を窺っていました。
そうやって男子と女子のグループ同士が深刻な軋轢を起こしたり誰かが傷つくことがないようしていたのです。
男子は女子にチョッカイを出さない。特定の女子をイジメない。標的にしない。
女子は男子たちを馬鹿にしない。あいつはキモイなんて言わない。特定男子だけを取り沙汰しない。
そんなグループの特性を考えて「運用すること」を考えるのが正しいことなのです。
男子と女子と言う時、それはグループです。
女性と言う時や男性と言う時にはそれは生物学的な存在です。
そこには責任がある。責任が伴います。女性は子供を産むのです。
責任もとれないのに「ジェンダーの克服」なんて議論をすること、それはとんでもない話なのです。
「取締役会の三割は女性にすべきだ」なんてバカげた話さえあります。女性の割合の多寡は結果でしかありません。
「我が国は女性の国会議員が欧州よりも少ないから遅れている。」、それは本末転倒な主張です。
有権者による投票の結果です。こんなことはバカでも分かることです。
女子をまとめなさい。
男子をまとめなさい。
そのグループの違いを越えて互いがまとまりなさい。
そうして男子と女子で団結して成績優秀で健康的なクラスを作るのです。
「ジェンダーの克服」なんて話は、クラスのクオリティを上げるためにはどうしたらよいか、そのために何をすべきか、せいぜいそんな議論でなければならないのです。
女子が残されて給食をひとりぼっちで食べさせられるのはどうでしょう。
それは一人の女子が女子の集団の中で孤立してしまうことを意味します。
女子には仲間が必要です。教師に抗議しなくてはいけません。かつての教師たちは謝罪さえ必要です。
そして女子は男子と違ってグループが結束しています。教師に抗議できるのです。
するとどうでしょう、「だからこそ専用車両は女子にこそ必要である」、それは正しいということになります。
女子のグループは結束する必要があるのです。孤立させてはいけません。
しかし男子に専用車両があったらせめぎあいが始まってしまいます。諍いやトラブルが起きやすいでしょう。女子にはそうした傾向はありません。
考えれば女子専用車両にはちゃんと意味があるとできるわけです。
女子だけに専用車両があるのは別に間違ってはいないわけです。
まあ、たまたま、偶然のことでしょうけれども。
「男子と女子」は戸籍上の、そして生物学的な区分けに過ぎません。
そうしたら「ジェンダーの克服」とは、彼らのグループを特徴づける行動様式や思考様式を考えるということになります。
「ジェンダーの克服」とは、弱さも強さも、闘争的な本能も、群集心理も、すべてひっくるめて相互に上手に運用しようという議論なのです。
男女の断絶、「ジェンダーの克服」というスローガンには注意
つまり今のように女性とか男性とか、「性」を切り離すことのないままの議論はまるで意味がないということです。
それは欺瞞に溢れています。
だから育児休暇が女性に取れるなら男性も取れるべきだ、そんな話がエスカレートして生理休暇が女性に取れるなら男性にも、なんて、いかにも珍妙な話になってしまうわけです。
誰でも共感できると思いますが子供にとって父子家庭など悲劇でしかありません。
それが分かっているから裁判所も親権を母親に与えることが多い。
それは別に子育て面で女性を優越的に見るからではありません。あくまで生物学的な見方からの結論でしかないのです。
「社会的課題」とするにはその目的が大事です。
男性にブラジャーをさせたり女性にスカートを禁じて「平等である」としたところで何の意味などありません。
「平等」というのは結果であり手段に過ぎません。
平等にすることでどうしたいのか、その目的が問題です。
目的は達成があり検証がされねばなりません。ジェンダーの克服という話にはそれが全くない。
それでもそんな欺瞞に目を瞑ってでもこの議論から将来の希望につなげたいというなら、中立的な議論になるよう注意すべきです。
男子と女子です。
そうでなければ男女の関係に悪影響を及ぼすことになります。
つまり男女の平等ということ、そして「ジェンダーの克服」を前提として現代社会に何らかの可能性を見出そうとすなら「男子と女子」という考え方をしなければ嘘なのです。
結局、「女性の権利」、などと言っているのがいれば「また党派的な世論誘導が始まった」、そのぐらいに受け流しておくのがいいのです。
そうして騙そうとしたのがアメリカ大統領選挙でした。
民主党はカマラハリスを担ぎ女性を騙して支持を集めようとしたのです。
ビヨンセやテイラースイフトに歌わせて女子を騙そうとした。トランプは女性差別主義者だと一方的に非難したのです。
まあ結局、賢明な女子たちがトランプを圧勝させたわけですが。
しかし考えてみれば、これは実は「話し合いか緊張か」とか、「軍備か外交か」なんて言い方と同じことです。
つまり「相対的な議論」ということです。
相対論は間違うことが多いものです。
「話し合い」の反対の言葉が「緊張」ということでしょうか?
「防衛のための軍備」、その逆が「外交努力」でしょうか。
どうにも疑問が生じてしまいます。混乱します。
相対論のレトリックには常に欺瞞が隠されているのです。
すなわち、女性の権利か、男性中心の社会か、という対立軸です。
女性の権利を拡大させようとする本来の目的とは、今の社会を発展させることが目的ではないのでしょうか?
ならば無理やり女性を優先して取り立てることでもないのです。
間違った言葉の使い方は深く我々の意識に影響を与えるものです。
そうしてそれを利用しようとする者がいます。
これをプロパガンダといいます。
相対論で男女を捉えられるでしょうか。男性の反対が女性ということでしょうか?
それはまるでシマウマの反対がキリンだと言ってるようなものです。
性? 性別とは?
こういう本質的なことを疎かにしているとLGBTだの同一性障害だのととたんに歪んだ話が出てきます。やがて異常な、いかにもおかしな話になってしまうのです。
男子と女子です。
人間にはその二つのグループしかいないのです。
オトナになって人とは違った性的志向を持つのはその人の勝手です。ゲイもレズビアンも個人の趣味趣向です。それは趣味の問題です。
しかし子供にそんなこと吹き込んではならない。
彼らにはまだ性徴さえないのです。
おぞましい話ですが、カナダやアメリカの一部の州では大人や教師が子供の女の子に囁いたりするそうです。
「君はボーイッシュだから、もしかしたら男性になった方がいいんじゃない? 性転換という方法があるよ。」なんて。
異常な連中が子供に触手を伸ばしているのです。
つまり「戦争と平和」です。そんな話です。
「戦争か平和か」じゃない。
それは二者択一の相反するものではありません。あくまで結果です。
それはともにコインの裏表に過ぎません。
どんな議論も実はそうした態度で臨むべきなのですが。
だから「男子と女子」と分けるべきなのです。
今は「男性か女性か」などとやっています。だからオカマや変態はどうする、そんな話が出てくる。
性と社会とが混同させられ、異常なことが異常でないとされて社会がかき回されます。
秘められたプライベートの性的な趣味趣向が社会的なことと混同されます。
その異常な病理は秩序を破壊さえゆきます。
女性の権利がどうのこうの、そんなことを言い始める人間がいたらまず疑ってかかった方がいいのです。
そこには何らかの意図があります。
人を動かそうとする意図がある。
女子はどういう傾向があり男子にはどんな欠点があるか、クラスをまとめれば何か良くなるかも知れない、「ジェンダーの克服」はせいぜいその程度の議論でしかないのです。
それがなかなか出来ていません。
だから男女の断絶が深くなってゆきます。
社会が教条的なことによって歪んでいるのです。
もはやこれ以上、社会で男女の軋轢をエスカレートさせるべきではありません。
性のことを社会的なことにしてしまったための断絶です。
だから男女の出逢いが少なくなっているのです。
多くの先進国で男性と女性に断絶が生じています。少子化は当然のことです。
今や絶望的にパートナーを見つけにくい世の中になっているのです。
それはこうした間違ったプロパガンダによる悪影響です。
まずお互いに社会での立場というのを考えてしまうからです。
女性としてチームリーダーをしている、あるいは課長をしている。男性の方はヒラの営業をしています。この二人は出逢えるでしょうか。
少なくとも昔ならそんなことは阻害要因になりませんでした。肩書きなど男女の出逢いには関係なかったのです。
今はそうではないでしょう。
女性の給与が男性より低いとか、そんな話が取り沙汰されます。
しかし「女性の側に年収があり男性の方が低いとうまくいかない」、そんな話がまだ普通に言われているのです。
「ジェンダーの克服」などと言ってる舌の根の乾かぬうちから、こんな話がまだまかり通っています。
そうしてこの議論しないまま「女性の年収を上げて差を埋めるべきだ」などと言うのです。
じゃあそれはいったい何のために?
男女が結ばれて家族が出来ることを妨害したいからでしょうか?(笑)
嘘なのです。
ジェンダーというのはいわば社会的な体裁です。
西側先進国ではそんなくだらないものが男女の仲を引き裂いてしまってるのです。
「ジェンダーの克服」という言葉には気をつけて欲しいと思います。