これは、何も「熟年の婚活」に限らないことではあります。ただ熟年ほどこうしたことは取り沙汰される可能性があるかも知れません。
家柄とか格というもの、お互いの出自というもの、現在も世間を騒がせているあのカップルのことにもつながるお話です。
結婚をする時、両方の家の格が相応しいかということは常に問題になることです。
あのカップルはそうした周囲の声を無視したため最悪の結婚になりました。もはやあの結婚には何らかの意図、裏があるとしか思えないほどです。
結婚によって影響を受ける周辺の人々というのは必ずいるものです。誰しも社会で生きているのですからこれは避けられません。
その時、周囲の人々はこういう家柄とか格式などを「使って」お相手を評価するということがあります。
若いならこうした家柄の釣り合いなどは無視したり、周囲と縁を切ったりすれば乗り越えることが出来る、そう考えてしまうかもしれません。しかしそれは過ちというにはあまりに無理なやり方だと思います。周囲を納得させるのではなく周囲との関係を破壊するのは相手のことを考えているようでいて考えているとは言えません。
しかも熟年の婚活となれば巻き込む周囲はどうしても多くなりますし、それはもっと大きな問題となることは間違いありません。
何も「若いから縛られる」ということはありません。実はむしろその逆かも知れないのです。
「もう熟年だから関係ない」どころか、歳をとればそれだけ家柄や出自は問題になりやすく、障害となる可能性があるのです。
なぜなら、周囲の人々に対し、そしてまた自分に対しても責任を取るべき年齢だと言えるからです。
だから、自分の出自を隠したり欺瞞すべきではありません。あのカップルの夫側の家にはあまりに秘密がありすぎるのは周知のところです。
ご自分の家柄について「知らない」とするのもよくありません。出自を隠しているような印象を受けてしまいます。
いったい、この「家柄や出自が言われること」の本質について理解している方がどれだけいるでしょうか。
それは実は現代では必ずしも封建的な価値感とは言えないのです。
近代の反差別教育や平等意識というものが普及し、あまり気をつけている人はいないように思えます。しかしまだこうしたものは「人を判定するための道具」として隠然と使われ続けているということです。
結局、その人物や結婚自体を判定するため、都合よく使われる言葉に過ぎないのではあるのです。
そもそも、それぞれの家にどの程度の格というものがあるでしょうか。親類縁者や親兄弟というものが集まってそれをなんとなく作っているだけなのかも知れません。
それがはっきりしたものではなくとも、素性というもの、家柄とされるものの正体です。それは結局、その人の「育ち」ということにもつながります。
育ち、付き合い、縁故者、周りにはお付き合いしている人々がいます。
核家族化が進んだとはいえ、日本はまだまだ個人主義というににはほど遠い社会です。家族とのつながりや社会的関係が重視される社会です。
核家族で「個」になったといっても、やはり親戚、兄弟というものはあります。
そうして、それぞれの家族にはそれぞれの「格」が存在します。
英語で言えばそれは「クラス」です。「階級」ということになります。
もはや日本は厳しい階級社会とは言えません。「クラス」というのもあまり意識されているわけではないでしょう。
また、もともと古来から日本が階級社会であったかというと、それほどでもありませんでした。
にも拘わらず家の格が障害になることがあるのでしょうか。これはどういうことでしょう。
バランスの取れた家柄の相手かどうか、それがなぜ問われるのでしょうか。
それは今後のカップルが問題を起さないかどうか、周囲が結婚によって迷惑を蒙ることがないか、それを想定したいわば「方便」なのです。
だから実は家柄や出自にはあまり意味がないとさえ言えます。結局、その人がどういう人なのか、その周囲の人間関係がどうなのか、それが見られているというだけなのです。
それは社会というものから向けられる視線と同じです。
「いい加減でちゃらんぽらんだ」と、その人を批判してもあまり意味はありません。人は反省したり意識を変えたりすることはありますし、見る人によっても違います。
それにそもそも、周囲の人々はそんな「ちゃらんぽらんな人間」と接点を持ってしまわないようにしているものです。自分が迷惑を蒙らないように距離があるのです。
だから、付き合っているわけでもないのに「いい加減でちゃらんぽらんだ」という評価が使えるわけもありません。
結局、家柄や育ちがその人の評価として使い易いということになります。
熟年の方々は結婚経験者がほとんどです。離婚したり死別したりして、終末最後の恋や出会いとして新しい人生を新しいパートナーとともに歩もうとします。
その時、こうした周囲からの評価が障害になることがあります。
極端な話を紹介します。
会社社長の男性、奥様とは死別され、新しい女性と知り合いましたが結局、結婚できずに終わりました。
近親者や子供からは相手は財産目当てだと後ろ指をさされてしまい、友人からは噂のタネになります。会社でも嘲笑のネタになってしまいます。昼食を外で二人で共にすることもできません。
同居を始めればまるでお妾さんのようなものです。
それこそネチネチと長いこと論評され、家柄が相応しくないと言われ続けました。釣り合いが取れないと言われそれが重荷になり、入籍することもできません。最後まで周囲の冷たい視線が絶えることがないままでした。
もし離婚した相手がいれば、その相手からさえ色んな話が出たりするでしょう。
「二人だけの問題」なんてことも言っていられません。
もちろん、連れ子がいればなおさらです。
「恥や外聞」という言い方さえ持ち出されます。
外国人、子持ち、離婚経験者、DV離婚、それらの事情が全て視線に晒されます。
それこそ、不倫の挙句の離婚などと知れれば、周辺の視線は厳しいものになるはずです。
こういうことは男女共に同じです。ましてや熟年が第二の婚活をすることには偏見がつきものです。
女性というのは、どちらかと言えばこうした周囲の視線から自由であるように思えます。
しかし、「自由な女性」というのは、逆に相手からすれば得体が知れません。
出会いの相手の男性からすれば、いったいどんな女性なのかという話になるのが常です。
それはご本人からでなくとも知人、友人、近親者から必ず出てくる話です。
「ワタシは自由だ、しがらみがありません」と、もし女性が言うのだとしたら、では男性の方がそんな人だったらどうなのでしょうか。
自由で身寄りのない男性を女性は望むでしょうか。そして出自をはっきり言わず隠そうとする男性を選ぶでしょうか。
得体の知れない男性より、女性は身元のしっかりした男性を選ぼうとするはずです。
それならなぜ、女性に関しては自由だと言えるのでしょう。あくまで先入観でしかありません。
結局、どちらも同じなのです。
近親者、知人や友人。熟年の婚活には意外とこうした「周囲」というものがあります。年齢を重ねているだけに若い人よりもそれはずっと多いはずです。
これらの整理の必要がある場合もあります。
大人として、きちんとしたいわば、身辺の「アリバイ」がなくてはいけません。
もちろん、それは「言い訳」という意味でのアリバイではありません。嘘をついてもしょうがありません。
これまでの育ちに不安があるというなら、しっかりした周囲との付き合いで固めていることを説明すべきなのです。
パートナーを得て幸福になるため、もし思い通りにゆかない付き合いがあったとしたら捨てる覚悟さえ持つべきかも知れません。
断捨離などと言われます。
それなら熟年こそ人間関係をまず断捨離しておくべきでしょう。
最後を看取ってくれる、お互いに人生の終わりのパートナーを探すというのであれば。
もちろん、例えば家柄や格式について合わないと言われ、ご自分の側でもそうした家柄のしがらみを完全に絶つことはできないというのであれば、相応の人を探すしかありません。
無理をしても不幸になるだけです。熟年ともなれば若いカップルの「丘惚れ」ではないのです。
同じ家柄のしっかりした人、親族の数、支えてくれる周辺の人々がだれだけいるか、それをまずフィルターにかけてから相手を考えるべきものです。
それにしたって、「自分の身の回りの整理が必要」ということには違いがありません。
切れない親族がいるというのであれば、相応しい相手を選ぶしかありません。
熟年なら、十代の恋のように駆け落ちが許されるような年齢でもありません。
しっかりしたバランスの取れる相手を選び、周囲に納得してもらえるような再婚をすべきです。
厳しい言い方ですが、人生の後半になっていつまでも夢をみていれば不幸になるだけなのです。
すでに熟年の年齢から婚活をするということには大きなハンデがあることは事実です。それは大変な労力を伴うといわざるを得ません。
「俺の勝手にさせろ」とはよく熟年のクチから言われる台詞ですが、周囲を納得させられる相手という大義名分はどうしても必要になります。
格式や家柄というのはこういう時、周囲の抵抗の、いわば方便として使われています。
実はほとんどの人には先祖や厳しい格式などなかったりします。継承すべき責任などなかったりします。
ただ「方便」として使われているというだけです。
家柄が問題とされる場合というのは、周囲はその人を胡散臭いと感じているということです。あるいは身内のエゴにより抵抗しているのです。
相手を判断する時、家柄というものは身元の保証のように役に立つとみなが考えています。そのフリをしているだけなのです。
これは昔からの知恵です。
どんなにボロをまとっていても、ちゃんとした謂れのある家柄、祖先のある人であれば「事情があるのだろう」と慮られます。
反対に、どんなに資産があろうと、出自を隠していて得体が知れないというのであれば、それは怪しい人でしかありません。
性格や人柄、その人の人間性はすぐに分からなくとも、人は格や育ちというのであれば敏感に感じ取り評価してしまいます。それは社会的なことだからです。
こういうことは職業がどうであってもあまり役には立ちません。
例えば、あまり大っぴらには言えないことですが、例えば看護士などはハンデがあるかも知れません。
少し古い喩えですが、新聞配達やパチンコ屋の従業員は怪しいという世間の評価があります。
その意味は、身元保証がなくても働ける職場だからで、すなわち身一つで働いているということです。
看護士の方にはよく「資格があるから自立している」というスタンスの方がいますが、看護士という肩書きをそこまで前面に出すのは果たしてどうでしょうか。
それほど自信を持ってアピールできるものかどうか、疑問があるといわざるを得ません。
もともと女性として独りで生きる事情があったから、だから看護士という資格でやってきたのではないでしょうか。
お金のことをまず考えて生きてこれられたのではないでしょうか。
そうすると人々は考えるものです。
なぜ独りで生きる必要があったのか、と。
そうして人々は思い出してしまうものです。お金は使えばなくなってしまいますが、育ちはそうは変えられないということを。
もっと言えば、看護士という職業や果ては医師という資格にしたって、その人となりを裏付けてくれるものではありません。
逆に資格があると、それだけに依拠することになります。ですから、逆に何か悪いことはないかと詮索されてしまうのが普通です。そうして出てくるのが「家柄」というものです。
第一、看護士など、血圧や体温を計る程度、注射をする程度の資格に過ぎません。
この時代、看護士だからといって、しっかりした人、身持ちの固い確かな人とは誰も見てはくれないでしょう。
実際、ほとんどの看護士さんが、パートナーと二人だけで生活しています。家や親戚付き合いというものを維持できているケースは少ないと思います。
また、婚活サイトでの看護士さんの割合は驚くほど高いものです。
それは、弁護士という職業にしても同じと言っていいかもしれません。
出会い系でパートナーを探している人で、身のほど違いの要望を言う人にこういう弁護士資格のある人が多いのは偶然ではないと思います。
彼らは色々とムリを要求することが多い人たちです。
結局、資格にしがみついている人は、それしかないという、何らかの事情があることが多いのです。そのために余計に家柄や育ちが見られることになります。
つまり周囲の人々というのはそういう目線で見るものなのです。
職場すらそうした家や格というものにコジつけて人を見ようとする場合があります。
しかし今更、人と一切の関わりを絶つことはとても難しいことです。
普通の熟年ならなおさらでしょう。
家柄などという、曖昧で現代からしたらほとんどの家にはないと思われるような、コケの生えたようなものの方が実は信頼される尺度になっていたりします。
人は立場だけでは評価しにくく資格も人間性を保障はしてくれません。そうなるとどうしても育ちが見られるしかないのです。
事情があると思われてしまえばいくらでもあるように思えてきます。
由緒正しいかどうかに関わりなく、家柄、出自というのは人から評価される尺度になってしまうということです。
そういうことを無視していれば必ずイザコザや諍いの元になると考えられてもいます。
若ければ身奇麗にするためにいちいち関係を切ってゆけばいいかも知れませんが、それが熟年、いい年齢であればどうでしょうか。
それまで付き合いがあったものを今更切れるでしょうか。
なかなか難しいものがあると思います。
結局、こういうことの解決策は親戚や周囲、友人との付き合いを日頃から見ておくということに尽きます。そして自分の人間性を見てもらうようにするということに尽きます。
「自立している」「自由だ」などと、いい歳をした大人が考えることでもないでしょう。
また、能力があるとか有能であるとか経済力さえ保障はされるものではありません。時流に乗れなければ評価されませんし経済的なことにしても一寸先は分からないものです。
結局、どんな人間で、どうあろうとしてきたのか、それを理解してもらうことが必要になります。
一方、親族の付き合いや周囲というものがあれば、人はそれなりに評価をしてくれるものです。
もちろん、そうした出自や人間関係を隠したりすることは決してプラスにはなりません。
縁故の人がまるでいないというのであれば、必ず育ちというものが問題にされるでしょう。
天涯孤独で友人もいない、それなら家柄はどうだったのか、祖先はどうなのか、出自はどうかということになります。
こういうことに注目が集まってしまうと周囲というものはその人を見ることはしないものなのです。
こういうことに関して家系を調べてくれるサービスというものもあります。
自分の家柄について知っておくことは婚活の有力な手段になります。
現代では家柄などないも同然なのですが、こうしたことが説明できる人は信用をつなぐことができるかも知れません。
つまり結論付けて言えば、ご自分の家柄について知っておくことも大事なことだということです。
よくも悪くも使われることがあるからです。
周囲から不用意に家柄や格式、育ちについて詮議されてしまう前に、予めはっきり説明できていれば障害に発展することはあまりないでしょう。
第一、自分を理解してもらう前に出自が取り沙汰されることを避けることができます。
その反面、家柄や格式、ひとたび出自というものが問われるようになった場合、それは大きな結婚の障害になることが多いものです。
誠実に周囲に向き合うことが必要なのはもちろんです。
もちろん、嘘や虚偽は致命的です。
今、あのカップルの結婚に関し、色々な疑惑、疑問、特殊な男性側の事情が問題となったことはよい参考になると言えるかも知れません。
なぜ決然と説明ができないのか、曖昧なことだらけで疑惑ばかりの男性側。
何より金銭的にも疑惑ばかりです。
結局、彼らは若かったので駆け落ちのような形になってしまいました。
あれでは国民の誰からも祝福されなかったのも当然ではないでしょうか。
彼らは国民という周囲の者、親類縁者に自分のことを説明ができずトラブルを起し続けていたのです。
結局、彼ら二人は自らの出自に向き合うことはできませんでした。
それは考えてみれば男女ともに疑惑ばかりでした。
彼らの失敗には多くの学ぶべきことがあると言えます。