人間は、なぜパートナーを探そうとするのか
人間も動物だからでしょうか?
繁殖、すなわち子孫繁栄のためにパートナーを求めるのでしょうか。
確かに動物、生き物は繁殖のためにパートナーを必要とします。
しかし、多くの生き物は特定のパートナーを必要とはしません。繁殖するためなら誰でもよく、その関係が永続的なものでない種もいます。
それに実際、動物が繁殖以外のために特定のパートナーとマッチングしようと機会を求めるということはまずありません。
もちろん、老いて独りになった動物のオスやメスが新しい伴侶やパートナーを新しく求めるということもありません。
しかし人間は違います。
なぜ人間は、どんな年齢でも特定のパートナーを探そうとするのでしょう。
「現代」というのは、基本的には孤独が前提の社会です。
我々は自立し、社会はすみずみまで利便性に溢れ、私たちは充足しています。
そして私たちには社会に対して責任があり、「自分の判断」というのが求められます。その上で私たちは社会の一員としてそれを支えています。
かつては結婚がその責任のひとつでありました。しかし自由になり社会での役割分担が進むと家族の結びつきは薄くなってゆきます。私たちは選んで独りでいることもできるようになったのです。
その代わりに私たちはなんでもおひとり様、やろうとすれば「独り」でなんでも出来てしまいます。
今では居酒屋でも料理屋でも「独りだから」なんて断られるケースはほとんどありません。独りで不便なことは何もないのです。
それなのにどうして我々はパートナーという相手を求めるのでしょうか。
婚活をすると決めたのなら、まずはそれを考えてみるといいと思います。
婚活、「結婚をしたい」という気持ちはどこから来るのでしょう。
立ち止まって考えてみましょう。
誰かと結ばれたい、一緒になりたい、そんなご自身の気持ちを考えてみるのです。
どうしてあなたはパートナーを求めているのでしょうか。
男女が互いを求める気持ちはどこから来ているのか、それに対するあなた自身の答えが、正しいパートナーを得られるヒントになってくれるかも知れません。
例えば、「人間の男女の結びつきは桃のようなものだ」、そんな話があります。
あまり日本では聞かないことかも知れませんが、いわば「桃説」というものです。
桃というのは果物のピーチです。
そう言えば、女性下着のメーカーに「ピーチジョン」という会社がありました。
そうして、幸せそうな晩婚をされた菊池桃子さんにはやはり桃という字が入っています(笑)。
どうやら、「桃」という言葉は、やはり何か男女の結びつきに関したイメージがあるのかも知れない、そんなことに気がつきます(笑)。
男性なら分かるでしょうが、睾丸のところ、いわゆる「ふぐり」と呼ばれるところには妙に縫い目のように見えるところがあります。
それはどう見ても女性の陰唇が閉じたもののように見えます。
「桃説」では、男性の睾丸のあたりの縫い目みたいなものは、女性の陰部が閉じたものが男性になったという説に続いてゆきます。
それが男女の結びつきの運命論、恋愛の成就を桃のように捉える「桃説」になっています。
すなわち、人類は女性が最初。
そして男性は女性から分裂して生まれたのでした。
男性は女性の一部だった頃の痕跡を残しているという説です。
「全ての人間は女性から生まれた」、そういうことになります。
そして、男性はその女性の分身となったのだ、と。
だから男女は、まるでくっついていた桃の片割れを探すため、パートナーとなる人を求めるのだ、と。
これは男女の恋愛というものは、その別れ別れになった片割れを求めるようなものだという考え方です。
女性が求め、男性が求め、お互いにその離れ離れになった片割れとなった相手を探しているのです。
それが「運命の出会い」を探すということなのだと。
だから我々の体にはその離れ離れになった痕跡が残されているのだと。
実は私はこの話をイタリアで聞きました。
まるでおとぎ話のようなお話です。
そうして男女が逆さになってくっついてみると、見事に二人で桃のようにピッタリとくっつくではないかと言うお話。
それが結婚なのだと。
いわば、その分かれた桃の片割れを探すということが恋愛でありその最終形が婚活だということです。
恋愛であれ婚活であれ、運命を成就させることが幸福な結婚に結びつくのだ というお話。
つまり「赤い糸」のようなお話です。
宿命のようなお話です。忘れていたペアがお互いを探し当ててくっつくというお話です。
ロマンチックではあります。
こうして考えてみると、ちょっとこのお話を広げてみたくなります(笑)。
こういう考え方は、人の結びつきをフルーツに喩えるということになりましょう。
なら、では「葡萄」だったらどうでしょうか。
葡萄は房に実がたくさんついています。
私たちには友だちや家族、親戚というものがあります。
みんなかけがえのない人たちだったりします。
友人が自分にとって家族と同じぐらいの存在というような人がいます。
家族、縁故、友人、誰にでも人には色んな人間関係、人とのつながりというものがありますが、それが伴侶やパートナーと同じぐらい重要なのだという人がいます。
そうして、まるで葡萄のようにつながって友人や知人、家族や一族の関係が交錯して、いつも決して独りではないという人がいます。
常に誰かと必ずつながっているという人はいます。
こういう「葡萄型の人」というのを考えると、それは妻も夫も、両親も友人も、まるでひとつの家族のようなものかもれません。パートナーも友人関係からつながっていたりします。
そういう人は決して独りではありません。捜し求めているのは自分の家族。
姑も小姑も、みんなが大きな家族。
そのつながり全体でその人そのものなのです。
全てがつながって、その人の周りを取り巻いています。
もしパートナーとしてそんな人と結ばれたとしたら、その葡萄のようにつながった人々の輪の中、葡萄の房のひとつに加わることになるでしょう。
大きな家族の一員、その人を取り巻く一人として、結婚生活を送ることになるはずです。
例えば、この話に違和感があるなら、そんな感覚の相手との出会いは正しいものではないということになります。自分を曲げなければお付き合いは成立しません。
私は独りのパートナーとしてみてもらいたい、親族や友人関係とは別だ、と。
そんな価値観の違いはよくありがちなことです。
・・・こんな、同じ果物でも、フルーツの連想で考えてゆくと、なにも出逢いの動機は出会う「べき」相手探しをするようなものばかりではないことに気がつきます。
運命的な「桃」のようなも のばかりではないのではないか、そんなことを思いつきます。
人とのつながり、恋愛や結婚には「葡萄型」だってあるのではないかと。
それなら、スイカやイチゴはどうでしょう(笑)。
スイカというなら種の多さです。
子供が出来る「子沢山」の出逢いということになるでしょうか(笑)。
イチゴも子沢山。
ご存知だと思いますが、あのブツブツは種です(笑)。
夫婦が、たくさんの子供を作ってその家族が一つになる。
そうして子供たちに囲まれて生きる人生。
そんな夫婦、そんな出逢いもあるように思えます。
あなたご自身は男女間のつながりにどんなイメージを想っているでしょうか。
もしかすると、こんなお話はお互いの理解のために役に立つかも知れません。
婚活などでマッチングしたお相手にこんな話をしてみたら、相手との相性を探るヒントになってくれるかも知れないからです。
恋愛の必然とか人間関係、パートナーよりも家族を優先するのか、家族関係を作ることが結婚なのか、難しい議論にならなくてもいいのです。
果物に喩えて自分は結婚をどんな形だと考えるのか、お互いにアイディアを出してみてはどうでしょうか。
人生に対する考え方は互いの相性につながります。
相性というのは大事です。
いくら好みや趣味の条件が一致していても、居住地が近くても、それでは「マッチング」ができているとは言えないかもしれません。
お互いに希望する条件がマッチングしたとしても、相手がどんな考えの人なのか、その人がどんな人なのか、どんな前提で二人の関係を考えているのか、それを理解するのはとても重要なことです。
しかしそれを説明するのはとても難しいことです。
それには材料があるといい。
話のキッカケが欲しいものです。
まずはこんなお話、「なぜ人間は特定の相手を探すものなのか」なんてお話はいかがでしょう。
こんなフルーツに喩えてお話を投げかけるというのはどうでしょうか(笑)。
こんな話から相手のことがわかり、自分のことも見つめ直せるキッカケになってくれるかも知れません。
少なくとも、血液型診断なんかよりはずっと有意義なことです。
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