ここでお話することは「恋愛の必然性」についてというお話です。
なぜ我々は恋愛をしたいと思うのか、ということ。
私が聞いた「桃」のお話というものがあります。
それは、男女は桃のような関係だというもの。
人は古代いにしえの時代、もともとは桃のように男女が二人してピッタリと、まるで桃のように結合していたというお話。
これはもともとはギリシャではよく伝えられていた話だったようです。
人間とは、お互いに二つの顔と四つの手足があるのがもともとの姿で、それが本来の「天界」での人間というものでした。
それがあまりに完璧だったので神がこれに嫉妬して、とうとう二つに分けてしまったというお話。
だから地に墜ちた人間は、今でも誰しもその離れ離れになった片割れを求めるようにして相手を探し求め、恋に落ちる、相手を探そうとするのだというお話です。
この話には私たちにとって、恋というものが何かを考えさせるものがあります。
足りないものを補うのか、欠けたものを再び元に戻すためにパートナーを求めるのか。
いったい何が恋する気持ちというものなのでしょうか。
恋の情動はどんなものなのでしょう。
何かはあらかじめは分かっていないけれども、出会った瞬間にきっとわかる。
それがこんな桃の神話から導き出される結論です。
相手を見るときっと分かる。
「この人だ」という確信。
「この人だったんだ」という発見。
それなら、きっとそんな出会いは、きっと誰にも一度はやってくるのだとも思います。
そのかつての片割れだった相手を確信する瞬間の恍惚と不安、それが「恋」というものなのだと私は思います。
「いつまでも恋をしよう」なんてよく言われますが、それは出会った時にきっと分かることでしょう。
先のことは分かりません。そんなあてどのない宝探しの旅をしているわけではない。
出会いはすなわち、そのかつての運命の相手を見つけることでしかない。
だから、恋に恋しても仕方がないのです。
「よい人がいない」なんて考えるより、いつか必ず誰かと出会えることをまず信じた方がいいのかも知れません。
それが人間がパートナーを求める気持ち、そのことで幸福になれるという、ボンヤリとした確信ではないでしょうか。
そんな自信がまるでないようではしょうがありません。
そんな自分の気持ちのコントロール、折り合いのつけ方というのが、きっと「片割れを探し求める宿命」という説なのだ思えます。
もし、相手に出逢えたとしたら、それはきっと運命の人なのです。
だから焦らず、恋に恋をすることなく、落ち着いて。