「シャレード」のケーリー・グラント
かつて1960年前半にヒットした映画「シャレード」はオードリー・ヘップバーンとケーリー・グラントが恋に落ちるというストーリーでした。
ミステリーサスペンスを中心にしながらも、根底には中年男性と年下の女性との恋が描かれていたと言えます。
当時、二人には20歳以上の年齢差がありました。
グラントは「59歳の自分の恋愛の相手としてヘップバーンは若過ぎる」と、そのストーリーに難色を示したといわれます。
ヘップバーンは33歳でしたからそれほど若い女性とは言えませんでしたが。
まあ、「二十歳を越える年齢差」ということは言えたかも知れません。
このグラントの意向のために当初の脚本は変更されたと言われます。
そうしてヘップバーンの方から恋に落ちるという形に、彼女の方からグラントへ積極的にアプローチするというストーリーになったというのです。
この「君は私には若過ぎる」というセリフは、本映画でもグラントのキメセリフとなっています。
それはグラントの本心であり彼なりの節度だったと私は思うのです。
そしてそれは熟年男性にとっての恋の真実でもあったのです。
自分の身元を隠し、偽名を名乗るようなことをします。
それは彼の任務だったのです。だから本来は二人に接点などありようもありませんでした。
しかしヘップバーンは最初から挫けませんでした。
グラントへの恋の予感があったからです。
そして彼女は幾度も彼への疑惑に直面します。それでも、ひたすらグラントを信じようとして悩むのです。
とうとう彼女はグラントに恋をしてしまったからです。
一方のグラントの方も彼女に心を開きませんでした。
そんなに甘い顔はしません。いくら中年男と言っても若いヘップバーンにおもねったりはしなかったのです。
相手が若い女で美女だからとて決して彼は妥協はしませんでした。
あくまで自分の任務を果たすのが優先でした。彼はヘップバーンを守らねばならなかったのです。
グラントはヘップバーンに内心は惹かれながらも、自分の気持ちをおくびにも見せることはありませんでした。
そこには初老の男の遠慮、ヒネクレた気持ちみたいなものが描かれています。
あくまでグラントは自分の役割と使命を優先したのです。
それで彼女から見切りをつけられたとしても仕方がない、グラントにはそんな覚悟さえあったように描かれています。
そうしてラストシーン。
事件を解決し無事にハッピーエンドとなって、とうとうグラントは彼女に婚約指輪を差し出します。
ラストシーンです。それほど瀬戸際のところ、ギリギリのところでグラントは彼女に対峙していたということが描かれています。
まさにこの映画の象徴的なエンディングだと言えるかも知れません。
ヒネクレる男性の心理
こうしたグラントのような、ややネジれた中年男性の態度の裏にある心情というのは、きっと多くの男性に共感されるだろうと私は思っています。
しかしこの映画が当時の女性たちにどう受け止められたのか、それは私は知りません。
しかし中年男の切なくも儚い恋心の芽生え、そして諦めにも似た皮肉な感情。
男性だったら手に取るように分かったはずなのです。
一方、女性にこうした気持ちが分かったでしょうか。どうも私には心もとない気がしないでもありません。
今日、私はそんな男女の間のスレ違いを感じないでもないのです。
善良な一人前の男というものは、たいがいどっかしらヒネクレた態度をしてしまうものです。
相手の女性に惹かれるほどそうなってしまう傾向というのがあります。
女性に悪意があるように誤解されてしまうことも多いものです。そんなスレ違いはよくあること。
しかし善良で男らしい男性ほど女性に対してそうした態度を取るものです。
冷たく客観的であまりベタベタしない。
シニカルな感じで最初から相手のことを相手にしてないように見える、たいていの男性にはそんな傾向があります。
それは諦めでしょうか。
それとも安易に誘惑には屈しないという男性の意地なのでしょうか。
私にはどうにも一種の皮肉めいた気持ちがあるように思えます。
ですから、女性を露骨に追っ駆け回すことにたいていの男性は引け目を感じるものなのです。それが一人前の男性の正常な自意識だと私は思います。
今の歪んだ風潮からすればこんな男性の優位性はジェンダーとして非難されることでしょうが確かな真実です。
男性は女性に優位している部分が多いのです。だから遠慮もするものです。
それは子供の頃にあるような愛憎相半ばしたような感情と似ているかも知れません。しかしそれとは違います。
好きだから意地悪をしてしまう、そんな子供っぽい感情とは違うものです。
子供の場合には、片思いの相手につい意地悪をしてしまうようなことがありますが、それは気を惹こうとしてわざと意地悪をしているのです。
手に届かないものをついには壊そうとしてしまう。憎んでしまうのです。子供ならではの残酷さです。
しかし一人前の男性にあるのは、自分のスタイルを守ろうとする気持ちです。
仮に自分のスタイルを崩してまで相手の気を惹けたからと言っても、それはどうでしょう。
欺瞞しながら相手と付き合うということになりかねません。
そうして結ばれたとしても自分に相応しい相手ということにはならないのです。自分自身に嘘をついていたことになるからです。
嘘をついて結ばれても、結局それは欺瞞された出逢いなのです。
男性はよい出逢いを求めるほど真摯な態度を追求しようとします。それが男性の「思い」です。
だから男性は相手が自分に相応しい相手かどうか、女性の出方を待つものなのです。
待っている以上は余計な干渉はしないようにします。たとえ誤解されたとしても弁明はしない。あくまで黙っているものです。
そんな寡黙さが正しい男性の自意識というものです。
このことをあえて説明すれば相手に対して公正であろうとする気持ちです。
相手が自分を理解するのであってこちらから押し付けてもしょうがないのだ、ということ。それが正々堂々足らんとする男性の気持ちです。
こちらから強いアピールをして気を惹くようなことまではしない。
そうした決心をすると男性は頑なになります。
相手に惹かれていればなおさらです。
ついそんな意固地な態度になってしまうものなのです。
女性の側こそアプローチを
だから「相手の閉じた心を開く」のはむしろ女性の側の役目だと言うことができます。
これは世間的なジェンダーの常識とは違うように思えるかも知れませんがそれが真実だと私は思います。
待ちぼうけの女性に対して追いかける男性、それは世間的なステレオタイプの誤解です。
男性がどんなにヒネクレているように見えても、もし女性の側が結果を求めるなら、もし出逢いを求めるなら勇気を出すべきです。
女性が相手に惹かれたら決して臆すべきではないということです。
そして辛抱強く接し、男性の意固地な態度をほぐすのです。
それが女性の役割というものです。
男性の方もそれを待っているものなのです。
逆に考えて、いくら惹かれたからといってグイグイと男性から詰め寄ってしまっていいものでしょうか。
それは男性本来のやり方ではありません。
男性は女性を守ろうとし頼りにしてくれるのを待つものです。女性から求められることを待つものです。
だから精神面でも肉体的にも経済的にも、男性はなんらかの意味で必ず強くあろうと努力しています。それが正常な男性というものです。
男性の意固地な態度というのはその決意の裏返しなのです。
だから恋心が湧いたとしてもあくまで男性は冷静になろうと努めるものです。自分は強くいようとします。
自分の恋愛感情にドキドキしてしまう、それはある意味では弱さです。
一人前の男性には恋の動悸さえ恥ずかしいものに思えるものです。メンタルの弱さと同じだからです。
しかしだからと言って姿勢を崩してしまうことは真の男性としてはありえないことです。
そこには逡巡や懊悩も生まれます。しかし男性でどうにかできるものではありません。
つまり男性の場合、出逢いというものは女性の出方次第なのです。
だいたい、女性の側がそんな男性の切ない気持ちを理解できなくてどうするというのでしょう。
出逢い系などではたいていの女性が男性からのアプローチを待っているようですが私はそれは違うと私は思います。
お見合いパーティでは「壁の花」なんて言い方がよくあったものです。
常に男性からのアプローチを待つばかりの受身の女性のことです。
しかし実際の話、たいていこうした女性が恵まれることはありません。
彼女たちはまるで男性のように意固地です。
好きなタイプを見定め、壁の花に徹して、あくまでその男性からのアプローチを待っているものです。
私の経験でもそんな願いが叶うことはほとんどありませんでした。男女の役割が逆転してしまっては仕方がなかったのです。
マッチングしたとしても男性は強いアプローチはしないものです。
男の方から手練手管などを弄して女性の気持ちに入り込もうとするなど、男性の本質からすれば愚の骨頂なのです。
いずれそんな魔法は醒めてしまうものだからです。
それは子供の恋愛ゴッコみたいなものです。
それは「結婚」とはまた違うゲームです。
合わないかも知れない、そんな相手と無理に関係を持っても仕方がないのです。
逆に、そうしたことに抵抗を感じない男性というのはそんな恋愛ゲームを楽しむものです。だから押しも強い。
もちろんあまり良い出逢いとはならないものです。
良い男性というのは女性からすればヒネクレて見えるものです。
往々にして大人の男性は恋愛に淡白なように見えるものでもあります。ムクれたような態度を取って気のないフリをするものです。
惹かれた相手にこそ、まるでムクれたように接してしまうことが多い。
皮肉で意地悪な雰囲気さえあります。
意固地になってカッコをつけているように見えます。
そんな男の取り繕いが可愛いと思える女性でなければいけないのです。当の男性の側はそんなことを密かに思っているのです。
また、女性がそれでも頑張って男の心を掴もうとする、その女性らしい真剣さ、いじらしさを男性は見てみたいと思うものです。
それは女性のひたむきさです。
そんな態度を男性は女性の純真さと受け止めるものです。
男性がヒネクレてみせる態度、そこにはそんな動機があります。
いわば女性の気持ちが試されているのです。
当の男性は気持ちが報われないことを覚悟しています。すると皮肉めいた気持ちにもなってしまうのです。
女性に対し公正でいようと努めている男性にはそんなところがあるのです。
熟女のアドバンテージ
映画の話で言えば当時33歳のヘップバーンを「若い女性」とするかはともかく、映画とは違って若い女性というのはこうした出逢いには不向きです。
若い女性というのは男性の複雑な心理が分かりません。
そして理解できない相手の態度を嫌うものです。
自分に理解できないことがあると、若い女性はとたんに不機嫌になってしまうものです。
男性から意地悪な言い方をされても裏に隠された本心が分かる、そんな若い女性はそうはいません。
すぐに諦めてしまうのがオチです。
若い女性というのはあまり考えることをしないものです。
辛抱強さがなく、すぐ投げ出してしまいがちです。
なぜなら「若い」というのはつまり「時間がない」ということです。
逆説的な言い方ですが、若いうちは人生が短いのです。若いうちはみな人生を駆け抜けてゆくものです。
人との経験も少ないですから壁に当たればあっさり諦めるしかありません。
そうした振り返りのないことは若さの特権と言えるのかも知れませんが。
表面的なことに振り回されてしまいがちなのも若い女性の特徴です。
カネでも服装でも容姿でも何でも。
女性には見えるものが全てです。
特に若い女性というのは男性の上っ面だけしか見えていないものです。
浮ついた言葉に酔ったり挙句には外面に囚われて騙されたりもします。
中年男性の善良さ、公正さ、自分への厳しさなど分かりようもありません。
なかなか中年男性と若い女性が結びつくことはありません。
つまり、頭の良い、賢い女性でなくては本当の男性の相手は務まらないということです。
こと熟年男性との出逢いということになれば熟女には有利なのです。
年齢を重ねているだけに人間の機微というのが分かるからです。
若い女性のようにちょっとツレなくされただけで挫けるということはありません。
理解できない相手を前にしていきなり不機嫌になる、そんなワガママもありません。
いざとなれば相手の気持ちを理解しようとして強い意志を保つことができます。
熟年男性にとって年相応の熟女が相手として相応しい理由がここにあります。
そうして出逢いとなって互いに探りを入れてみたり、ツレない態度を取ってみたり、それとなく気持ちを探ってみたり。
そんな面倒な駆け引きを乗り越えて結ばれるなら、しっかりした出逢いとなる筈です。
相手の気持ちをこじ開けるのは女性の側です。
難しい試練に晒されなければ女性の気持ちが地に足のついたものかどうかは分からないものです。
そうでなければ女性はただ一時の魔法にかかっただけです。そんな出逢いでは絆が得られないこともほとんどです。
また、付き合ってみたら失望したとか、内面的な理解が互いに及ばなかったとか、そんな失敗や徒労で無駄にできる年齢ではないのです。
男性がムクれる時こそ好意のサイン
ムクれる、なんて言い方をすることが世間的にはあります。
違う言い方をすれば「不貞腐れる」ということです。
「男性のヒネクレた態度」というのはそうしたものでもあります。
要は「本心とは裏腹な態度」というところです。
何か不満があるのか、すごく意固地になっている。男性がそんな風に見えることがあります。男性がそんな不貞腐れた態度を見せることがあります。
それは何か怒りや敵意のように感じられることさえあります。
女性にはそんな風にヒネクレた男性の態度が見えます。
子供のことを考えてみます。
子供というのは何か気に食わないことを言われたり不満が高じて不貞腐れるわけです。反発し固執してしまったりする。
もう知らないやと投げやりを決めこんでしまう。そんな風になるわけです。
責任というものを知っている熟年男性が投げやりになることはありません。
つまり、同じような態度が中高年の出逢いで現れる場合には、子供の場合とは違った意味を持つということなのです。
それは男性が相手に惹かれているということを意味しています。
その不満な気持ちは自分に向けられたものです。
何もアピールなどせずとも自然に相手を惹きつけられない、そんな自分がもどかしいのです。
男性がムクレてしまうと始末に置けないように見えます。どんな説得をしても男性はなかなか態度を変えてくれないように見えるものです。
頑固になり意固地になる。
しかしそれは男性が相手に惹かれている程度に比例しています。
本心では幸福感でいっぱいです。それで恋が破れたとしてもそれはそれです。
これは実は夫婦喧嘩にしても同じです。
頑なになる男性に対してコジらしてしまうのはたいてい女性なのです。
こうした男性の態度は女性には理解しにくいのかも知れません。
女性と言うのは弱いものです。
ワガママでもありますし無責任でもあります。他者に対しては期待感が先に立つものです。
しかも自分の気持ちを抑えることは難しい。
だからすぐに気持ちや態度が変わります。
機嫌を壊してムクれたとしても、女性はすぐに機嫌を直してしまいます。
まるでなかったかのように機嫌が直る。いわゆるツンデレです。
気持ちはコロコロ変わって落ち着かないようにさえ思えます。
男性にはそういう人は少ないものです。
一度でも男性がスネると始末におけないように見えます。
いつまでもスネているように見える。許してくれないかのように感じられるものです。
たとえ恋愛での駆け引きにしてもやり過ぎのように見えたりするものです。
それこそ男女の駆け引きなのです。まさに我慢較べでしかありません。
どうして女性は不貞腐れてもすぐに機嫌を直すのか。
女性は感情に任せるからです。
では男性にはどうしてその修正が難しいのか。
たいていの男性には自分のルールというものがあるからです。
信念という肩書きがあるのです。
それはいわば男性にとってのいわば「看板」です。男性としての自覚であり自意識です。
これがあるから女性の相手になれる、これがあるから自分は相手から愛される、男性はそんな風に思うのです。
だからその態度は容易に変えることはできません。
それは「プライド」とも言い替えられます。
裏づけになっている自分というものなのです。
だからそこを抵触されないように男性というのは身構えるものです。どんな恋の結末になろうと自分を壊すわけにはゆかないからです。
そうして男性は自分のスタイルを守ろうとする。そこが女性からすれば意固地に見えてしまうのです。
そこへいくと女性はそれがありません。
女性と言うのは自由で奔放です。
だからこそ女性は変幻自在に色んなタイプの男性を惹き付けることができます。女性には色んな恋愛の可能性があると言えます。
対して、そもそも男性には自分のいいと思うタイプの人以外は問題にならないものなのです。目に入らないものです。
男性には自分のスタイルという制限があるからです。恋の可能性は女性よりはずっと少ないのです。
だからどんな出逢いとなるかは女性の側に託されている、男性の方はそう考えるのです。全ては女性次第なのです。
つまり、どんな女性にも男性との出逢いの可能性は少なからずあるということです。
問題はそこから先です。
どれだけ女性が辛抱強くできるか、相手の男性に近づこうと頑張れるかということに尽きます。
好意を持っている男性の気持ちをコジ開けるのは女性なのです。
自分のスタイルとルール
ちょっとでもメールやLINEのやり取りが途切れたりするとすぐダメ出しをしてしまう、そんな熟年女性がいます。
辛抱のない女性、まるで若い頃のままの熟年女性という方がいます。
しかし焦りは禁物です。
よい出逢いであるかどうか、互いの気持ちが試されることはすでに始まっているのです。
そこで自分の気持ちを抑制できるかどうか、人の気持ちが分かるかどうか、それが試されているのです。
こと女性というものは外からの刺激が重要です。
褒められたり優しくされたりすることに大きな喜びを感じるものです。それは外からの刺激というものです。
あまり内省というのはありません。
特に若い女性で言えば女性には自分に課したルールやスタイルと言うものはありません。
快適かそうでないか、女性はそうした感情で動くものです。
女性は髪形をあっさりと変えますしファッションも変えるものです。
自分のルール。そんなことを若い女性が考えるはずもありません。
中年男性にどんなルールがあるかは想像もつかないのです。
だから若いものは若い同士、若い女性は若い男性と結ばれることが多いのです。
若い男性ならまだ自分のスタイルもなく意固地になることもあまりないからです。
結局、それは偶然の出逢いです。
こうした若年層の出逢いに対し、熟年男性と若い女性との出逢いは難しいものです。
熟年男性が出遭いがしらの事故のように出逢うわけにはゆきません。
男性のルールというものもある程度分かるものです。
たいていはお稽古や作法などを覚え、社会常識も身についています。
生理的に女性本来のものと違っていたとしても、そうしたルールの一端は多少なりとも理解できるようになっているのです。
それが男性にとってどれだけ譲れないものかどうか、そうした心の機微が分かっているものです。
男女には恋愛に対しての認識の違いがあります。
男性は恋愛に夢を求めていつまでも待てるものです。
女性はそうではありません。とりわけ若いうちは具体的なことに惑わされることも多い。
こうしたギャップは恋愛につきものの紆余曲折ではありますが、若いうちはともかく、熟年にでもなればそんな機微は男女どちらも分かっていなければならないことです。
スネたように見える男性は相手を待っているのです。
男性は自分の心を開こうとする相手の辛抱強さを試しているのです。それがきっと揺るぎない絆になると信じているからです。
相手が自分にとって本当に大事な人になるかどうか、歳を重ねて用心深くなった熟年男性というのはそうした態度を取るものです。
こうした男性を「面倒臭い」と感じるのは若い女性ならではのことです。
若ければ急ぎます。すぐに次のチャンスへと目を移してしまいます。
しかしいずれ誰でも歳をとります。
そんな人は「気持ちが若い」とは言えるかも知れませんが、年齢相応の出逢いにはあまり恵まれることはないようです。
婚活でも「ないものねだり」の女性に多いものです。
漠然とした男性への不満があり、要求があります。男性への期待が空回りしてしまうことも多いものです。
寡黙な中年男性に対してはことさら不満が多いものです。
連絡してくれる頻度を気にしてイラつきがちです。
そうして出逢いの機会を失ってしまうのです。
「孤独な熟年女性」という人にはそんなところがあります。
婚活を続けて熱心にやっているのにいっこうに成果がなかったりする、そんな熟年女性がいます。
意固地になり愚痴ばかり言っている女性です。
だからと言って男性がこうした女性の心をコジ開けることはできません。
男性から見ればこうしたタイプの女性はいざ面倒と思えばスッパリと切ってしまうように思えます。言うだけ無駄と思うのです。
やはり女性の側から積極的なアプローチが必要なのです。
そもそも若くなくとも若くとも、相手の気持ちをコジ開けるのは女性の側の役割なのです。
これを理解できない女性は出逢いのチャンスに恵まれないまま歳を取ることが多いものです。
焦ってもしょうがない、そんな言い訳はあるのかも知れません。
そのうちご自分の焦りとも共存するようになって、まるで中身は男性、彼女も自分のルールに固執するようになってゆくものです。
もし、そんな女性の気持ちを逆にコジ開けてくれる男性がいるとすれば、ずっと年下の若い男性かも知れません。
彼らはまだ中年男性ほどヒネクレることはありません。
まだ急いでいて人生を焦っています。
年上女性への憧れは若い男性には共通してあることですし、もし結ばれたならきっとよい結果をもたらすでしょう。
しかし、そんな若い男性を熟年女性が惹き付けるというのは並大抵のことではないかも知れませんが。