婚活の事前面接があってもいい、秋篠宮家の長女の騒動に思う

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 お見合いパーティーの進化から、ネット婚活時代の今に至るまで、結局、出会いに求められているものは「良縁」ということに尽きます。
 これを言うのは簡単ですが、ではその「良縁」とはなんでしょうか。
 まず周囲が納得してくれ、祝福してくれる結婚だというのは間違いないでしょう。
 個人の好き嫌い以上に、「結婚」という社会的な関係を成立させるのであれば周囲を抜きには出来ません。

 それを良縁と判定するものは結婚生活という結果ではありません。そこに至る過程も大事です。
 よく結婚式ではふたりの「なれそめ」というのをスライドで発表したりエピソードを紹介したりしますが、それは社会にそういうニーズがあることをよく示しています。

 二人の結婚が恥ずかしくないプロセスを経ているのかどうか、周囲はそれを見ようとしているのです。

 もちろん、その後の生活はあくまで当事者の問題です。しかし極端な話、周囲を納得させられないのであれば婚姻などせず二人の関係を大事に暮らしてゆけばよいのです。

 婚活の失敗も成功も、全てが自己責任ですが、「良縁」とはまず周囲にとってのものだということが出来ると思います。

 これはアメリカでの話ですが、マンハッタンなど高給住宅、共同住宅アパートメントの入居者の場合、それがオーナー間の売買であっても、既存の入居者たちによる「面接」というものをするというところがあります。

 マンションやアパートメントというのは共同生活です。
 そこに怪しげな人物が入り込んで共同生活が乱され、不動産の財産価値が棄損されることがないよう、みなが責任を持って目を配っているというわけです。



 では「婚活」に関してはどうでしょう。
 カップルができるということ。

 それは我々という社会にとっての資産、と、そう考えることは出来ます。彼らは我々共同体の一員として社会に貢献をしようとし、誠実に振舞おうとする隣人となる人々だからです。
 子供が生まれれば、それは社会にとっての財産となります。
 熟年の結婚であれば、それは「安心できる老後」という将来像となり、それもひとつの社会にとっての財産です。

 単に本人たちだけが納得できて、今、ハッピーと考えるならいいのでしょうか。
 それは疑問かも知れません。無責任に過ぎると言えるかも知れません。
 社会には規範というものがあります。個人の自由にも限度があり、勝手な振る舞いは共同体では白眼視されるだけです。

 これから、コロナ以降の世界を考えるとき、私たちは人と人の関係について落ち着いた関係を求め、以前にも増して信頼できる相手を探すことになってゆくと思います。
 運営側もカップリングだけで終えることはできず、これからますます運営側には責任が伴うようになってゆくかも知れません。

 あるいは、私たちは社会全体として、もっとクオリティの高い出会いを追求してもいいのかもしれません。

 野放図な出会いは秩序に対する脅威ともなります。
 少子化問題というものにしても、社会が個人にクチを出すことがタブーのようにされ、共同体の規範というものが歪められたから起きてしまったことではないでしょうか。



 「周囲の押し付け」に反発するのは若者の特権ですが、その押し付けすらなくしてしまってはしょうがありません。そこに個人の自由などありようもないのです。「社会からの押し付け」があるから「個人の自由」として対立が出来るのですから。

 私たち社会は結婚と言うものについてもっと規範を持ってもいいと思います。
 むやみな結婚はカップリングでしかありませんし、それは男女関係でしかなく社会に対して責任が果たせるというものではありません。結婚は社会全体が祝福できるものでなければなりません。

 ではそのためのマッチングをどうすべきでしょうか。
 年収や職業のマッチングでよしとするのか、人間性や教養、品格で判断するのか、家や格式のマッチングで判断するのか、色々と切り口はあると思います。

 運営側による面接や面談、筆記試験というのはどうでしょうか。

 口先ばかりで中身のない男女、異常なほど周囲を無視した結婚への執着、結婚を利用して利益を得ようとするかのような振る舞い。
 それはそもそも彼らの親、前の世代からすでに歪んだものがあったのではないか、そう思わずにはいられません。男女の側、ともにそんな多くの疑惑が取りざたされています。
 彼らには教育と躾けが必要でした。それを個人の自由と拒否する権利はありませんでした。言わずもがなのことですが、秋篠宮家の長女の結婚に関することです。

 婚活のための出逢いにはもっとはっきりしたハードルがあってもいいかも知れません。
 「よい結婚」というものを規定し、そこから外れたものは外れたものとしてあるべきかも知れません。
 それは間違ったことではありません。
 
 もし、こういうことを偏見や差別などと耳障りのよいスローガンで否定してしまうというのであれば、みなが公正に扱われることとなります。いたずらな配慮は差別につながります。
 車椅子であろうと気遣いされることもなく、ハンデのある人々には冷たく厳しい社会となってしまうことでしょう。



 婚活に関わる人々だけでなく、社会の多くの人々が「良縁」というものを考え、もっと社会全体としてその規範ができていればよかったのに、そう思ったりします。
 私たちは近年、こうしたことを「偏見」として片付けてきました。
 しかし誰にも共通の意識があるから共同体というものは秩序を保っていられるのです。

 そうしてひとつの結婚はまた次の結婚へ祝福のバトンを渡します。出逢いは必ず誰かの出逢いから引き継がれているのです。
 こうした環が今回のことで傷ついてしまうような気がするのは、我が国の象徴である皇室という財産に関した不祥事だから余計に感じることなのかも知れません。

 これは自由主義の我が国のこの世の中で、例外的にそうではないはずの皇族が公然と責任から忌避している惨状を見ると思うことです。結婚には規範があっていいではないか、と。
 秋篠宮家の長女の今回の強引でいい加減な結婚を見るにつけ思ってしまうことです。周囲の祝福がある出逢い、結婚こそ望ましいのだ、と。

 「選ばれた男女」と言ったら何か優性思想みたいで気持ちが悪いですが、「選ばれた出会い」と言い換えたらどうでしょうか。
 あの長女の結婚の相手は相応しいものなのでしょうか。家柄はバランスを欠き、母親には説明ができないことが多く、自身の行動も立場をわきまえない常軌を逸したものでしかありません。

 私たちは出逢いを求める時、それが相応しい出会いであるかどうか常に自問自答しているものです。それは相手にとって自分が相応しいかと考えることでもあります。
 そうした自問を公然と拒絶する彼らはこの社会から祝福をされることはないでしょう。どんなにメディアがハヤしたてたとしても。
 もちろん、今回の皇族の結婚は明らかにおかしなものなのです。
あそこに個人の権利や「自由」を持ち込む考え方も尋常ではありません。

 こうして今、進みつつある暴挙、秋篠宮家の長女の結婚をみるにつけ思うのです。
最高の出会いを提供するため、そのクオリティを高めることは大事なのではないか、と。

 案外としっかりしたビジネスになるかも知れないと私は思うのですが。




 by 婚活係長


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