女性という生き物は、「破壊と生産の生き物」であると私は思っています。
大胆であり、そして変化を好みます。
それは時には厄介であり時には進歩の原動力にもなります。
今回はそんな側面から掘り下げ、男性が女性にどう対応しどう理解を深めていったらよいか、それを考えてみようと思います。
これは偏見や先入観ではなく、あくまで女性をステレオタイプで捉えた上での議論に過ぎません。しかしこれが婚活のヒントになればと私は思うからです。
さて、実は女性は意外と大胆な人が多いものです。
ですから、「大人しい女性」とか「しとやかな女性」、消極的で自分を前に出すことの少ないという女性像というのは、男性中心の社会が刷り込んだイメージであると言えます。それはすでに古いものでしょうが。
それこそがジェンダー的なことであり、「社会から押し付けられた女性像」というものでしょう。
それでも、たとえ世間の体面や社会生活に隠れがちだとしても、女性の考え方は大胆に飛躍するというのは事実ですし、既存の価値感など女性の感受性の前ではいとも簡単に壊れてしまうものです。
ではそれはどうしてなのか。
それはまず、「子供を生む」という女性の生物学的な特性から由来していることだと言えます。
そして子供を生むという「生産」の前から、女性は周期的な月経というもので無数の回数の「破壊」を行っています。
生理、いわゆる「月のもの」というのは、それほど多くの女性の人格形成に強い影響を与えてきたのです。
月経の症状が重いにしろ軽いにしろ、女性は若い頃から、それこそ女性は少女の頃から月経という痛みと付き合ってきたのです。
こうした生物学的な制限というのは女性にとっての所与の持って生まれてきた制限であり、女性のキャラクターを特徴付けてきたものです。
すなわち、こうした生物的な破壊と創造のサイクルに影響されて、女性は因習を破壊したり前例とは違う行動に出る傾向があるということです。
そしてまた、女性というのは新しい変化を喜ぶものです。出産は創造であり新たな人生の変化です。
女性のそうした意識が変革を産んできたことは間違いありません。
「女性取締役を3割に引き上げる」と言う政府の目標もあながち間違ったものではないかも知れないのです。
「大人しく保守的で穏やかだ」と言われる性格の女性にしても、その本質はほとんど変わりません。彼女たちは既存の価値観や決められたことに囚われることがありません。
男性の価値感からくる、女性に対する期待というものが女性をそうでないものとして押さえつけようとしてきただけです。それは西洋的な価値観であって、女性というのは元来、羽ばたき飛躍しようとし変化するものです。
男性側からすれば、男性中心の社会、その秩序のためにそうした押し付けを女性にしてきたに過ぎません。
なぜなら男性には女性というのは不可解なものであることに違いはないから。
せいぜい女性にはレッテルを貼って大人しくしておいて欲しい、それがこれまでの男性からの圧力、すなわち「ジェンダー」というものです。
現代においてのみならず、我が国の歴史では女性を制限しようとする圧力は成功することはありませんでした。樋口一葉の奔放、大阪夏・冬の陣、壬申の乱、女性は大いに自由で権力すら持っていたのです。
そうした「大人しい女性」、「従順な女性」という押し付けは近代になって西洋から持ち込まれた欺瞞であったことは明白です。
「お化粧」という習慣にしてもそうです。彼らはいとも簡単にさっきまで見られていた自分を変えてしまいます。「オトコは顔に責任がある」と言われますがそれからすれば不思議なぐらいです。
そんな女性の行動パターンを考えてみても、そこには「破壊と創造」というサイクルからだいたいのことが説明できると思います。
そして、女性はとかく「感覚的な捉え方をする」といわれます。
それは彼らに組み込まれた「破壊と創造のサイクル」からきていることなのです。
また、女性を「感情的な傾向が強く、一貫した論理性がない」などと感じる男性がいます。
ただそれは女性の論理には生理的なことが多くを占め、気分的なこと、女性自身のサイクルが中心にあるというだけに過ぎません。
女性の「直感」というのは男性からすれば「勘」と似たようなものと思われがちですがは少し違うものです。
男性の勘と言うのはアテにならないことが多いものです。
対して、女性の直感と言うのは必ず何らかの意味があるものです。男性のそれよりもずっと信頼性は高いものです。彼女たちもそのことに自信を持っているものです。
つまり逆に、ある意味では、女性のこういう生理的な面というのは首尾一貫しているということになります。
女性が合理的でなかったり理屈の合わない考え方をするように見えたとしても、実は生理的な感覚や感性からすればごく自然なサイクルであり一貫した合理性があるということです。
「女性の考え方には矛盾や非合理がある」とするのは、あくまで男性側の論理性に過ぎないというわけです。
女性には社会合理性や経済合理性が見えにくかったり、男性側からすれば論理矛盾があるように見えるかも知れませんが、女性には男性の抱えるような論理への拘泥がないというだけに過ぎません。
つまり女性の破壊と創造のサイクルは男性の論理とは次元が違うということなのです。
例えば、恋愛ということに絞ってお話をすれば、女性というのは一度嫌いになった男性を「見直す」ということをほとんどしません。
それは後戻りできない感情の振幅の結果であり、説得や反省の介在することのない絶対的と言えるような感情です。
破綻した夫婦関係や恋愛を修復するのはとても困難なものです。言葉ひとつ、態度ひとつで女性は致命的な判断をしてしまいますから男性は注意が必要です。
それは出逢いの場でもそうでしょう。相手への判断や印象が覆ることはなかなかありません。
だから逆にそれが覆った時の好印象というのは絶大なものがあると言えます。
最初は少しだけ印象を悪くそっけなく、そして次第に気持ちを溶かしてゆく、それは男性なら誰でも知っているテクニックです。
納得し、満足していた関係であったとしても、一度嫌悪すれば、そのような感情が上回ればたちまち女性の心を凌駕してしまいます。
それがどんなに自滅的なことであったとしても、冷めてしまった女性との関係を修復するというのはとても困難なことです。
女性が一度でも激しく嫌悪してしまった相手を見直すということはほとんどないのです。
たとえそれが誤解からのことであったとしても、修正してもらうことはとても難しいものだったりします。「私の誤解だった、悪かった。」そう言える女性がどれだけいるでしょうか。
そうして女性が人生を無駄にしてしまう、そのような悲劇的な結果になることもあります。
こういうことを理由のない女性特有の嫌悪感や好き嫌いや気まぐれであるとして、「女性には理屈がない」と非難する男性もいます。
「家長」を自認したり社会をリードしていると責任を感じる男性にとってはそれはとても厄介な女性の傾向なのです。
しかし、一度マイナスというカラー、つまり布がある「色」に染まってしまったものがなかなか落ちないと考えれば、それは無理もないことだと言えます。
だから良くも悪くも、「女性との出会いにはとにかく第一印象が大事である」というのは、こういう女性の傾向をよく分かった上でのアドバイスなのだと言えます。
「第一印象」とは言いますが、女性に最初から余計な先入観を持たせないようにすることはとても大事だということです。出会いの場である婚活はそれほど余裕のあるものではありません。最初に軽く悪い印象を、だなんて悠長なことは言えるものではありません。それはまたオフィスやもう少し近い距離で出逢いのお話です。
逆に言えば、第一印象次第で女性はいとも簡単に騙されてしまう場合があるという真実です。
どうしてあんな男に惹かれるんだろう、などと周囲が不思議がるカップルがいたりしますが、悪い方でも良いほうでも女性は一度受けた印象をなかなか覆したりはできないというだけなのです。
これを「破壊と生産」ということに当てはめれば簡単なことです。
これまでの価値感が壊れるような相手、そんな出会いを経験すると女性は変化します。
これまでにない男性のタイプとの付き合いに伴う生活の変化、そこで起きる創造を女性は楽しむようになります。
「新たな恋愛」というのは、そんな「破壊と創造」の状態と言えます。
そのような劇的な変化や、自分の日常に起きる変化を楽しむという気持ちは、女性の内部から自然に湧き出てくる「情動」によるものです。
それは新しい生活です。新しい暮らしです。そうした波に乗ることを女性は好みます。女性にはリズムが大事なのです。
女性自身も、そうした自分の感情を否定したり振り返って立ち止まることはあまりありません。
そもそも生理にしてもそうですが、そうした自分の内部に起きることを否定しても意味がないことを女性たちは知っているからです。
しかし、だからこそ、いずれは生理が収まるようにまた反対側に振れてしまうこともあるということです。それは危険な、破滅を含んだ恋愛ゲームもあり得ると言うことになります。
新しい暮らしを始めたと思ったらすぐにまた止めてしまう、すぐに飽きてしまう、躁欝気味にさえ見え、移り気な女性という周囲からの評価も珍しくありません。
女性というものが男性から「自分のことしか考えていない」と、いつも利己的に考えているように見えるのはそうしたところに原因があるのかも知れません。
女性には相手や外部からの何かによって自分を否定したり反省することは難しいことなのです。
自分自身から自然に涌きあがるものに従うのが女性というものなのです。
そうであれば、出会いや婚活ということを考える時、男性の側は女性からの最初の印象に気を配るべきでもありますが、女性の方から男性のよいところを見つけてもらうのがいいということが言えます。
具体的に言えば、男性は女性の生理的な感情を避けるべきだということです。
赤裸々な自分を見てもらいたいという、いかにも男性らしい理想や、普通の男性なら信じているような「実直さ」はあまり婚活の出逢いには役に立たないということです。
女性が余計な感情の乱れを起こさないよう、清潔で大らかで、穏やかに男性は接するべきなのです。最初から強い印象を与えないようにする方がむしろいいのです。
男性との出逢いという、新しい刺激によって激しい破壊と創造のサイクルに突入することのないように、穏やかにお付き合いが始まるようにすべきなのです。
そして男性は自分の立場を中立で公正なものにし、女性の側が相手のあなたをもっと知ってみたいという感情を自然に起こしてもらうということが大切です。
そうして知り合って関係を深めてゆくこと、そこが大事なのです。
少なくともジゴロのように、とにかく相手を惹きつけることだけを目的とした恋愛ゲームではなく結婚という目的があるのであれば。
出逢いのスタートはそんなゆっくりとしたものが理想ではないかと私は思います。
逆に、もし女性をとにかく口説き落とすことを目的とするジゴロだったとしたらどうするでしょうか。
彼らはとにかく出会いのシチュエーションというものを作り出そうとします。
ジゴロに中味などはありません。彼らの日常は演出と小道具です。彼らの周りには旅行や会食、カネ、様々なインスタ映えする出来事やモノに溢れているものです。
それはハタから見ればあまりに突飛なものに見え、白々しく、よくも通用するものだと周囲を感嘆させるほどです。
ところが女性はそうしたものにいとも簡単に騙されてしまいます。
そうしてジゴロ的な男性というのは偶然とか不思議な縁とか、運命的なものとか、理屈では説明できないものを前面に出そうとします。
そうして出会いを演出し、いわば女性をそこからムードに酔わせようとするのです。
しかしそれは男性側から考えれば「洗脳」のようなことかも知れませんが、女性自身にとってはそれは自分で望んだ破壊と創造のサイクルです。彼女たちはそこに引き込まれてしまったと言うだけです。
すると終わりは見えています。次の恋を探すジゴロからすれば願ったり叶ったりのことでしょう。
女性はそうした自身が自ら発見したものと、誘導されたものとを混同してしまうことが多いものですが、自ら発見したものでない場合は破壊と創造のサイクルはとても短いものです。
なぜ混同してしまうのか、女性はそうした出会いを新たな変化と捉えるものですし、これまでの日常の破壊を受け容れて歓迎するものだからです。
女性にとってみれば変化は喜ぶべきことであり、そうして暫くは創造のサイクルに入ってゆきます。
この時、女性を支配しているのは「自分自身の感覚への信頼」というもの、それに支配されているといういわば幸福感であり、愉悦です。
ここにも女性特有の「破壊と創造」というサイクルの特徴が窺えると言えます。
これまでの日常や価値感は、感情の起伏によってあっという間に破壊されてしまいます。
変化を女性は受け入れ、新しい生活を始めてしまいます。
そして、そうした高揚感のゆえにこそ、結局はまたいずれは自身の内なる「破壊」によって「醒めてしまう」ということを繰り返すのかも知れません。
だから何度も同じ手口でジゴロに騙されてしまう女性というのがいるのです。
女性をこうした「破壊と創造」のサイクルから脱却させることはできないものです。
だからこそ、最初からニュートラルな立場をとり、あくまで女性の側から男性を理解してもらうようにすること、それによって落ち着きのある関係、かけがえのない絆を作ろうとする態度が必要だということです。
なぜなら、女性自身から自ら見つけたことであれば単純な変化とはならず、つまり安易な短い期間の破壊と創造のサイクルにはならないからです。
それは長くゆっくりした破壊と創造のサイクルの「創造」の部分であるりべきです。
男性を簡単に見限ったり諦めたり醒めるようなことにはならないのです。
これは何も恋愛でなくともいい話です。
論理的で合理的な男性の考え方を女性の側に理解してもらおうとするなら、女性が自分の感覚によって男性の理屈に歩み寄ってくれるように環境を整えることが必要だということです。
これは「気付き」とも言えます。
マーケティングなどのメソッドはそうしたことを当たり前のようによく教えています。
すなわち、感覚的に行動し考える女性と論理的に行動しようとする男性とがお互いに理解を深めてゆくためには、女性から自発的に男性の論理性に目を向けさせることが必要ということなのです。
それは女性側が自ら見出してくれるものでないといけません。
その上で女性が自分から相手の男性の中によい部分を見出せたなら、その出会いはきっとかけがえのない素晴らしいものになるでしょう。
確かに恋愛とは「日常の破壊」そのものには違いありません。
女性は新たな変化を受け入れます。
二人でいることで起きる暮らしの変化は素晴らしいものです。
ここで男女の関係が女性の創造と破壊のサイクルとしてはゆっくりとしたものであればすぐに醒めてしまったり突然に理由のない嫌悪感に囚われてしまうことにはならないはずなのです。
それは男性の言い方からすれば「安定した」関係ということになります。
それはきっと小さな誤解や過ちで簡単に壊れてしまうような関係ではなくなることでしょう。
そうでなくては、感覚に生きる女性が飽きてしまったり、気持ちが冷めてしまうことを男性はいつも心配していなくてはなりません。
お互いに理解を深められないまま、女性が恋愛の昂揚と興奮、つまり短い破壊と創造のサイクルの中にいるならば、男性は女性のきまぐれに振り回されているように思えてしまうでしょう。
とりわけ熟年という、あまり時間のない恋愛にそうした気分次第の回り道は禁物です。
熟年ともなれば女性には更年期もありますし(男性にもありますが)、破壊と想像のサイクルは短くなっています。それを「焦り」と言えば分かりやすいかもしれません。
しかしできるだけお互いの絆を深め、そして人生の折り返し地点をともに生きてゆこうとするなら、こうした女性のエモーショナルなサイクルについて男性は理解しておく必要があります。
女性の中にある「理屈」とか「論理」というものは、言ってみれば風が吹いたり花が咲いたりするようなことと同じです。
男性はそれをごく当たり前の自然の摂理と同じようなことだと思えばいいかも知れません。
ジゴロがシチュエーションを工夫し、舞台装置を整え、最初の第一印象をいかに強く刷り込んだとしても、それは所詮は外から誘導されたものに過ぎないのです。そして強いだけに醒めるのも早い。
そうした出逢いは短い破壊と創造のサイクルにあります。
女性はいくらでも心変わりしてしまう可能性があります。
結局、それは女性自身の内部からきた感情ではないことにいずれ気がつくのです。
到底アテになることではありません。
女性には自ら価値を発見してもらう必要があります。
ジゴロというのは、周囲の説得によってフラれてしまうのではなく、女性自身の情動のサイクルによって必然的にお払い箱になってしまうものなのです。
そんなことを飽きもせず自ら好んでやっていけるのはきっとジゴロぐらいでしょうがw。
しかし普通の熟年男性にとっては時間の無駄でしかありません。
「自然に」というより、むしろ男性は自分を抑えて控え目にしておくぐらいがちょうどいい。逆説的ですがそれが女性に対する「誠実さ」ということになります。
穏やかにして情動に流されず、女性から自分に興味を持ってもらい、そして女性の側から男性を知りたくなるようにすべきなのです。そうなっているかどうかは普通に感じられることです。
燃え上がるような恋愛は熟年には難しいものがあります。
若い女性ですらそうした恋愛となれば不安定なばかりで始末におけません。雑音に左右されてしまうものですし傷つくものです。若い情熱が勝っているからなんとかなっているのであってそんな場合ばかりではありません。
ましてや、熟年であれば、それは多くの経験を経た女性なのです。
落ち着いた付き合いのために急がば回れです。連絡を密にとろうとしたり常に寄り添うことを要求されることもあるでしょうが、よく説明して落ち着いた関係からゆっくりと発展させるべきなのです。
恋愛ゲームにはすぐに破壊が待っています。持続的にするためにはそのサイクルを長くすることです。
女性の破壊と創造のサイクルを消すことはできません。
だから創造の時間が続くようそのサイクルを長くすればよいのです。