三島由紀夫はお見合い結婚だった!
激動の昭和の時代、多くの芸術作品を生み出した著述家、作家です。東京は市谷の自衛隊駐屯地で檄を自衛隊員らに飛ばし、最後は割腹を遂げたことで有名です。
彼は結婚や恋愛について、日頃からひとつの考え方を語っていました。
それは、男女が結びつくのは真剣勝負であるということ。
そこには正々堂々とした態度で向き合う心構えが必要なのではないか、彼の持論はそういうものでした。
そして三島は、「お互いに惹き付けられるのが恋愛だと言っても、それは付き合いながらお互いがお互いの品定めをしているようなもので卑怯だ」、と結論付けたのです。
事前にそんな、「計算づくの付き合いをしてから」それで結ばれる恋愛など卑怯なのではないか、と。
人間がカップルになり、子供を作り繁殖をしたり、あるいはともに生きていくということ。
人間も動物には違いがありません。
その出会いは、もっと直感的なものであるべきではないか、と。
そして、「男女が結ばれる現代の恋愛には、実直なところがあまりないように思っている」と、そんな三島独特の恋愛感を吐露していま す。
長く付き合っていたとしても、たやすく別れてしまえるのが恋愛です。
お互いに二人、覚悟があって付き合っているはずなのに、それはおかしいではないか、と。結婚と恋愛と何が違うのか、と。
動物はそんなことはしないではないか、と。ペアリングした動物はどちらかが死ぬまで離れてないではないか、と。
三島はそんなことを考えたのです。
そして三島は続けて言います。
男子たるもの、そんな軟弱な恋愛などに浮かれてどうする、昔は「イイナヅケ(許嫁)」などと言って、本人の意志に関係なく婚姻が勝手に決められたものではないか、と。
それは「条件」さえ合えば必ず結ばれるものでした。
そして三島はこう言ったのでした。
「いきなりの見合いこそ、男女が結ばれるのに相応しいやり方ではないか」と。
お見合いなのだから、いきなりお互いにさっと顔を合わせるだけ。その他の条件はあらかじめ合わさっています。結婚するかどうかはその場の勝負。
そこでお互いに何か閃くものがあるかどうか。
その一瞬の勝負のような瞬間は、女性にとっても男性にとっても実に正々堂々としたものではないか、と。
そう三島は看破したのでした。
お見合いの場で、電光石火、何かの閃きがあれば結婚をすればいい。長々と付き合ってお互いの相性や性格を見て、結婚までおそるおそる計算をしながらやっていくことには欺瞞がないか。
それこそ、人間同士が感受性を通じ合わせ、一瞬の覚悟で結ばれるのであれば本来の「野生」であり、実直さがある。男女の出逢いというのは、「見合い」にこそ真実があるのではないか、と。
そう三島は語っています。
そして最後に、三島は、「ボクは見合いで結婚しようと最初から決めていてる。そして、最初の相手とすぐに結婚を決めてしまうだろう」と語っています。
まさしく、三島由紀夫はその通りにしたのでした。
お互いに、どんな困難が将来訪れようと、それを乗り越える覚悟を持って結ばれるのが結婚というものです。
その覚悟があれば、その先、どんなことでも二人で乗り越えていけるはずです。
しかし、恋愛なら「この人はこのぐらいまで」といずれ分かってしまうことになります。それはまだ人生のほんの予行演習なのかも知れません。
だから、「二人で乗り越えていけるはず」などとがむしゃらに頑張れないこともある。そういう訳にゆかないこともある若い二人です。
結局、ちょっとした、何か障害でもあれば諦めてしまい、挫け、恋人たちは別れることになったりします。
あるいは、細かな条件を決めてあらかじめ品定めをし、マッチングしたとして付き合って慎重であったとしたらどうでしょう。
同じように困難に対しての限界も見えてしまうものかも知れません。
それは所詮は契約でしかありません。
覚悟もなかなかできないでしょうし、二人一緒に乗り越えるという共通の認識が芽生えることも少ないかも知れません。
しかし先の見えないまま結ばれるような、そんな「お見合い」だったらどうでしょう。最初から崖っぷち、見通しなど最初から立ちようがありません。
「どうせできっこない」なんて、諦めてしまうほどには、お互いに相手をよく知らないのです。
だから、夫婦としての器に合わせるしかない。
だから、がむしゃらにどんな障害も困難も乗り越えようとできるはずではないか。
三島の話をもう少し現代的な論理で言えばそんなことになるでしょうか。
「お互いが成長できる」ということが、人生のパートナーというものでもあります。
護り、護られ、慰め、頼り、そして二人で穏やかに暮らす。
そこに「諦める」ということは入りません。「二人を諦めることができる」というのは、ペアとなった関係ということすれば言葉の矛盾も甚だしいことです。
こう考えれば、三島由紀夫の言うように、昔のような「お見合い」という「感覚」は、結婚への決断としては良いものがあると言えるかも知れません。
「・・・ここで諦めなければ、どんな困難があろうときっと上手くいく。」
「それが二人の運命だ。」
と。
そんな瀬戸際でも我慢できるのは、お互いがお互いをよく知らないからです。少なくとも、一方が一方を斬り捨ててしまったり、相手のせいにして逃げてしまうことはない。
しかしどうでしょう。今の婚活・お見合いはどうか。
三島由紀夫が言ったようにそれは正々堂々としたものでしょうか。
ネット婚活を例にとれば登録はネットで行います。
「入力必須」の項目が空白のままでは登録が先に進みません。そこには各自が希望条件をこと細かに入れることになります。
どんなシステムでも、相手へ要求する条件や収入だのを比べ、比較してマッチングしてゆくことになります。
それはまるでカードゲームのようなもの。
ネットで婚活が手軽になるようになったからこそ、気軽にできるプロセスです。
しかし、果たしてその便利さは十分に活かされているでしょうか。便利なだけにマッチングしたら、エイヤッと入り込める覚悟が伴っているのでしょうか。
どうにも私には逆に思えてなりません。
「まずはそこから」、「マッチングしてから」となっているケースが多いように思うからです。マッチングしたらもうそこで決断の時期ではないのか。
どうしてもプロフィールは不特定多数への発信となります。
全てを自分で入力することになりますから三島の時代のような偶然のものはありません。そこかしこで「我」というものが前面に出てしまいがちです。
いわく、煙草を吸う人は嫌だ、料理が得意でないと困る、身長はどうか、体重はどうか、おカネがあるか、旅行好きかどうか。
趣味はどうか・・・。
では、それなら、家柄はどうか、学歴はどうか、相手の育ちは気にならないでしょうか。
親はどうか、親戚はどうか。
今は別に暮らしているとしても、高齢の姑と同居することになったらそれができるのでしょうか。
「知らなかった」では済まされない問題です。
今はそうした周辺情報が疎かになっている気がします。
しかし、これが昔ながらの「お見合い」であればどうだったでしょう。
本人たちが相手の兄弟のこと、その素行、親類縁者の事前調査なんか始めたらそれこそキリがありませんでした。
だから、昔はたいていはお見合いの仲立ちをする人、あいだに立つ人がうまく探したものです。
それが三島の時代の、昔の「お見合い」というものでした。
相性が合うかどうかはさておき、他の条件はちゃんと相応しい相手というのを見つけてきたものなのです。だからお互いに相手と自分の決定的な相違点を考える必要はありませんでした。
今、皇室ではそうした「出自」でモメていたりするのですから、この点は誰でもピンとくるだろうと思います。相手にはやはり求められるものがお互いにあります。
つまり、当人は「譲れない条件」を言うべきなのに、自分の好みや主張という「自分」ばかりで、基本的なことが疎かになりがちだということです。
自分以外のこと、ご自分の周辺情報がうかつにされがちではないかということです。
この問題とは、理想や希望の条件を出したらキリがないぐらいなのにそればかり、逆にご本人の周辺情報はあまり出されないということなのです。
それはマッチングしてから後に出てくることでよいのでしょうか。
それが三島由紀夫が看破した当時のお見合いの潔さと、現代の婚活との違いということではないかと私は思います。
それならむしろ、細かい条件や希望にはなるべく拘泥せず、もっと大事なことだけを出して他は鷹揚な態度でいた方がよいのかも知れません。
自分には相手へ要求する条件はあまりないと、そんな態度でいた方がいいかも知れません。
ただ条件に「日本人としてのルーツがあること、先祖がいること」とか、それを書くぐらい(笑)。
婚活サイトでは、逆に「細かな条件」に溺れてしまうということがよく見られます。
これは少なくとも気をつけた方がいいことだと私は思います。
昔の三島の考え方を現代に当てはめてみなくとも、最低限はそれはいえるのではないでしょうか。
もし、あなたが「細かい注文が多い人」ということを隠さないのなら、必ず相手も同じような人でしょう。
あなたはそれでいいでしょうか。
これは是非お勧めしたいことです。
少なくとも、覚悟のある結婚、真面目な結婚を考えているのであれば。
好みや嗜好ではない条件、他の条件をまず前面に出しておくべきかもしれません。
その他はその場でパッと覚悟を決めるつもりでいい、それが三島の達観したお見合いです。
それは、出身地や国籍、家族構成、学歴、育ち、といったことになるでしょうか。
三島にもし習えうなら、他のことは直感で決めてしまったほうがいいのかも知れないのです。
最後に、この婚活に関する三島の遺言を忘れ、少しあなたのことを考えてみてください。
あなたは、やたらと説明書き、但し書きの多い商品を買うでしょうか。
そう考えてみるといいと思います。
ゴチャゴチャとウンチクやら効能やらキャッチコピーが書いてあり、やたらと主張が多いように見えるパッケージというのがあるものです。
そんな複雑な説明がされている商品をあなたは何気なく手に取って買ったりするだろうか、と。
考えてみてください。
パッと見て、その瞬間にグッとくるものがある。
そんなところからまずお互いが惹きつけられる。話はそれから。
これが本当の意味のマッチングではないでしょうか。
プログラムやAIがいくら発達してマッチングしたからといって、それを盲信するだけの結婚はあまりに危うい。
お店では、まずキャラクターや商品のロゴが目に飛び込んできます。
そしてまず商品を手に取ってみるのです。それは最も基本的なことが書いてあります。日本製かどうか、製造年月日、製造工場、内容物。
ネット婚活というように、出会いのカタチは現代で変わっても、「お見合い」というのをもし理想とすれば、そういういわば「第一印象を最初にどう表現するか」ではなく、出逢ってからの直感、それが分け目なのかも知れません。
そうだとすれば、むしろ、ネット婚活ではむしろ無機質でも周辺情報を発信するべきだと私は思います。
それはあまり面白いものではないと思いますが、大事なのはそこなのではないか。
もちろんそうする以上、あなたも相手から発信される「周辺事情」を理解すべきでしょう。
考えてみれば、これはブログなんてのでも同じことです。婚活に通じることではあります。
あなたが長く読者になっているブログもあると思いますが、あなたはそこの読者にどうしてなったのでしょうか。
つまり、まず最初に考えたのは、「こんなことを書いて欲しい」という、筆者への注文ではなかったはずなのです。つまり、「相手にはこんなことをして欲しい」という希望は結婚ではないはずなのです。
幸福な結婚のため、持続可能で困難に挫けない結婚のためににはどうするか、もしそれを願うなら、三島の看破したような「正々堂々とした婚活」となるよう、もう一度見直してもいいかも知れません。
「最後は直感が決める婚活」という風に。
それが現代に通じる、婚活に関する三島由紀夫の遺言だとはできないでしょうか。
まずご自分の周辺事情を出すことに注意して、他のアピールは考えない。
細かな好みや相手に希望する条件などは会ってからのこと。
一瞬で判断してしまおうと覚悟してしまうこと。
なぜなら必ず、それ以前に譲れない条件があるはずだからです。
当サイトはみなさんの婚活の成功を、心より祈っているものです。