「好み」の違い
たとえ相性がよくてお互いに好きになったとしても、互いの好みがどうしても合わない、まるで正反対だということはあり得ることです。
よくあることかも知れません。
それが「許せるかどうか」、婚活ではこれをどう判断したらよいのでしょう。
そりゃ許さないといけない、それが正解だ、そんな主張もあるのかも知れません。
お互いに譲り合って相手に合わせようとするのが人間というものだ、それこそ家族になるんだから、と。
あるいは、好みなんて小さなことだ、それが我慢できないのなら家族なんか持てない、と。
そういう意見はきっと多いことでしょう。
では、互いの違いはそれほど簡単にやり過ごせるものでしょうか。
それはお互いに足りないところを補ってひとつになる「桃」とは違います(笑)。
男女はそんな風に二つに割れた桃だという考え方があります。相手を片割れとして探すのが恋愛や結婚だという考え方です。
しかしその半分は同じ桃なのです。半分が桃で半分がリンゴでは足りないところを補いようがありません。
「好み」と言えば小さく聞こえるかも知れませんが、「ライフスタイル」としたら別に聞こえるのではないでしょうか。
熟年がライフスタイルを変えるのは難しい
例えば、地域のコミュニティに寄り添って生きてゆきたい、そんな人がいます。一方では他人と関わることなくあくまで二人だけで支えあって生きて行きたい、そんな人もいます。
もしそんなライフスタイルの違いがあったとしたらどうでしょう。
そんな人はそんな出逢いがあるまでは一人で暮らしていたはずなのです。せっかくの熟年の出逢いがそうした暮らしの平安を乱すことは誰も望まないでしょう。
一人でいることを寂しいと思わず、趣味や自分のことに没頭できる人はいます。対して地域の活動や友人や知人、常に世界を広げてゆきたい人というものもいるのです。
お互いのライフスタイルには違うものがあるのです。
「自分から趣味を取ったら何も残らない」、そんな言い方がよくあります。それは「自分の人生には友人たちこそが大事だ」、それと同じことです。
それがライフスタイルということであり、具体的には後期高齢の老後になればそれは重要なことになってきます。
後期高齢者となって、簡単に転居や引っ越しができるでしょうか。できないという人も多いはずです。
今の暮らしを変えることは考えることもできない、そんな人はいます。
あるいは今後はホームに入るのか、我が家で最後まで暮らしてゆこうとするのか、選択する必要が出てくるかも知れません。
熟年や壮年となればライフスタイルを変えることは難しいものなのです。
熟年離婚の原因となるケース
また、そんな「好み」の違いが突然、顕在化してしまい、熟年夫婦にとって問題となることがあります。
お互いにケンカ腰になってしまい、それがキッカケで互いの好みの違いが気になりだしてしまいます。
ことに女性にはこうした傾向が強いものです。女性は嫌になるととことん相手を嫌悪するようになるものです。
それは女性特有の自己肯定であり、相手の方に原因があるのだと転嫁させようとする、それが原因なのですが、それはまた別な機会のお話です。
ともかく、一度気になりだすともはや些細なことではなくなります。
許せなくなる、そんな奥様は多いものです。それこそ味噌汁の飲み方、椀のすすり方すら気になってしまうようになります。
そうして最初は小さなものだった好みの違いが、重く大きなものになってゆきます。日々の夫婦の暮らしがストレスになってゆきます。
しかしたいていの男性、ご主人には理解できません。男性は相手の好みまで意識するような細やかな人は少ないものだからです。
これまで奥様の好みなどほとんど考えたことがない人がほとんどです。
だからご主人には奥様の不平が理解できません。自分に向けられた非難を受け入れられない。
これは割りとよくある熟年離婚の典型的なパターンです。
ここで、もし修復する努力をしたいなら、「これからはこうして食べてみたら。」と、そんな風にお願いをしてみることです。
実は別になんてこともなかったりするのです。
最初からついケンカ腰、嫌悪感で突っかかってしまう奥様があまりに多い。
それも奥様はまるで今頃になって気が付いたようにご主人を非難しようとします。
ご主人にとっては自分のアイデンティティが脅かされたように感じることになります。
それは理屈のないことだからです。
本当は別なところに不満があるのに「好み」なんてことに転嫁されてしまい、最後には何が原因のスレ違いだったかさえよく分からなくなってしまいます。
結婚に失敗して離婚となって、振り返ってみてもその原因が何だったか判然としないまま、そんなことだけはすべきではありません。
生きてきた意味さえ見失ってしまうでしょう。
相手のことに気が付けないままの悲喜劇
熟年の婚活」ということに話を戻せば、同じ轍を踏まぬよう人生設計や生き方のことを話しておけばいいということになります。
それは婚活での話題のひとつにもなるものです。
相手の小さな好みひとつしても、よくよく聞けばそれはずっとトラウマになっていたものを引きずっていたということがあります。
それは単なる好みの問題ではなかったりします。
何も熟年の婚活でなくとも、好みやライフスタイルの違いをお互いに分かっておくことは理想です。それは相手への配慮につながります。
そうでなければいつか致命的なスレ違いに発展するかも知れません。そうしたことを心配するのは賢明な態度だと思います。
こういうことを疎かにしておくとツケをいつか払わねばならない、そんなことになったりましす。
いつか、これまで蔑ろにしてきた些細なことが大きな溝になってしまう、そんなことはよくあることなのです。
現在の夫婦関係でもそんなことがあるのです。
ましてや新しい出会いなら尚更です。しかし本当はそれは実はキッカケのひとつに過ぎません。
もともとどこかに違和感があったわけです。
なんとか押し殺してはきたものの、いざそれが顕在化してしまう、そんなことになると相手には嫌悪感しか湧いてこないようになります。
すべてが疎ましく感じられるようになってしまいます。
結局、そうなれば後戻りできなくなってしまうということになります。
熟年離婚する女性ではこうしたケースが非常に多いものです。
つまり、人間同士なのですから、必ずどこかしら違う部分はあるものなのです。そしてその違いに気が付かないままということはあるのです。
どんなに話合っていたとしてもそんなことは起こり得ます。
しかし歳をとってから、そんなことを今更ながら気が付かされるなんて、そんな悲喜劇を演じてしまうのは誰だって嫌なものです。
「お前、俺が半熟卵が嫌いだって知ってるだろ。」、って、なんとも絶望しちゃいそうになる悲喜劇ではないでしょうか(笑)。
「えーー、そんなの知りませんよ」、そんなことを今更のように奥様が言う。
「お前、いったい何年俺と一緒にいるんだ。」、今更ながら旦那さんが驚く、怒り出す。
こんな話です。
この話で言えば、奥様はご主人と長らく暮らしてきながら半熟卵が嫌いだということを知らなかったのです。ご主人は奥様が知っていると勝手に思い込んでいたのです。
そのことに気が付いたご主人はこれまでが無駄な夫婦関係だったと考えるようになる。今後の先のことが不安になる。
何も熟年離婚は奥様が言い出すものばかりでもありません。
違いを乗り越えることの難しさ
どうしたらよいのでしょうか。
「お互いに許しあう」ということも確かに大事ではあるでしょう。
クリスチャンの方というのは、ちゃんと結婚のときにそういうことを誓います。すなわち「お互いの違いを乗り越える。」ということを互いに誓うのです。
しかしそれはあくまで若い時だからできる出発です。
熟年、壮年ならそうはいかないかも知れません。
もうお互いに長い人生を歩んでしまっているのです。どうしても簡単に譲るわけにはゆきません。
こういう相違が問題になることは、単純に「ワガママ」とは片付けられない部分があります。
熟年の婚活で結婚できたと思ったら病気になってしまったとして、それを勝手だ、ワガママだなんて、そんなことは誰にも言えません。
それは加齢によるものなのですから。
そうしたことも含めて二人は熟年の婚活を果たし、結ばれたはずなのです。
人生に予期しないことは起こりえます。
そして年齢を重ねれば重ねるほどそのリスクは高くなります。
「好み」や「人生設計」にしても、いくら前もって婚活中に話し合っていたとしても、「知らなかった」なんてことや「想定してなかった」なんてことはいくらでもあり得るのです。
つまりとりわけ熟年や壮年の男女が迎える新しい出会いでは、包容力とか優しさですべてが乗り越えられる問題ではないということです。
すでに人生経験の積み重ねは終えているのです。
ですから、お互いのライフスタイルを確認しておくことは大事でしょう。
お互いが尊重されなくてはいけないし、我慢し続けることはできません。それはアイデンティティの問題です。若くない人にとってはこれを曲げることは困難です。
それなら、いざお互いの違いが引っかかってしまった時にどうするか、これも想定しておくことが大事になります。
お互いの違いから起きることを想定することも大事なことですが、予期しない形でライフスタイルの違いが顕在化して衝突してしまうこと自体も想定しておくのです。
気付けなかった場合のことも想定しておくということです。
相手のことを無視できるか
互いの違いを乗り越えることの結論としては、だから、「相手のことを無視できるか」と考えてみるべきです。
それは相手に立ち入らないで知らんフリができるかということ。
「見ないようにできるか」ということ、これを想定することが大事です。
そこはただ「こういうことが嫌い」なんて一方的に言ったりせず、トゲトゲしくないようする必要はありますが、ともかく無視できるかどうかが重要です。
好みが違うと分かった時のため、ご自分がどんな気持ちになるか、どこまで許せるかはちゃんと伝えておいたほうがいいとは思います。
しかし結局は無視できるかどうかです。
あるいは相手は無視されることに我慢できるかということになります。
それは相手の嫌なものを見ないようにできるか、そしてそんな風に見ないよう無視されることに自分が我慢できるかどうか、ということです。
これは意外と気をつけないとできないことです。
気にしないようにして無視する方にしても、無視される方にしても慣れが必要かも知れません。
ことはアイデンティティの問題だからです。
歳をとると楽しいことばかりではなくなってきます。加齢もあるし知人や身内の不幸、親族とのゴタゴタもあるでしょう。
それを最終的には気にせずやり過ごせるかどうか。
相手の境遇と自分との違い、そういうものを許せるかどうかではなく「無視できるか」ということです。
それはライフスタイルや好みの違いは「どの程度なら我慢できるか」という、程度の問題ではないかも知れないからです。
もう我慢はそれほど出来ない年齢なのです。
ありていに言えばそれは、
「どこまで無視できるか、
どこまで「所詮は相手(他人)のことだ」と、知らんフリができるか」、
新たに二人で同じ人生を歩むということは、熟年や壮年ならばとてもタイミングの必要な難しいことだと思います。
しかし、上手くいけばとてもよい関係になれるものです。「オトナとしての節度」があるからです。
だから、それは「大人として相手を独立した相手として思えるか。」ということになります。
自分は主人なのだから、とか、自分は妻となったのだからと、あまり立場にこだわってはいけません。
「所詮は相手とは他人なのだ。」そういい切れる一種の強さがあれば、年齢を重ねたとしても婚活を成功させることができるのです。
あまり期待しすぎない、あまり相手を型にハメようとしたりしないことです。
自分はライフスタイルを変えられず、変える気もなくて相手に自分の好みを要求するだけでは若いうちでも厄介な相手となってしまうでしょう。
「お互いを受け容れねばならない」という心構えは、人間として必要な節度でありますが、そのカタチは若い時とは違うものになることは認識しておくべきでしょう。
熟年の婚活のあるべき態度
そうすると、熟年の婚活では特に「よそ行き」の態度が必要なのだと分かります。
歳をとってから若い人のような夫婦関係にはなかなかなれないということです。
協力し合ったり時間をかけて妥協したり、二人が夫婦として馴染んでゆこうとするには時間がありません。
どちらもお互いに「よそ行き」で暮らすことが最善だと思うのです。
何も介護人を探していたわけではありません、運命の人を探していたと言うには年齢を重ねすぎています。
熟年の夫婦らしく、新しい出会いにときめく夫婦を演じ、独立した役割を演じるのがコツだということです。
そうであれば嫌な部分や違いについては無視し、「ないかのように振舞う」ことになります。
熟年からの再出発、改めての婚活にはその時間がありません。
だから年齢を重ねた人なら、独立した男女として相手とは違う好みなど無視したいところは見ないようにし、まるで長年連れ添った壮年の夫婦のように演じるべきなのです。
地域のコミュニティに対しても、あるいは二人きりでいる時にしても、オトナとして振舞えばいざ何かあったときには客観的に対応することができます。
互いの介護の世話となることを避けたり、ホームへ移ることを選択をしたり、遺産分け、別居、お互いに独立したオトナとして残りの人生をともに分け合おうというのですから、そうした態度を保つことでいざこざにはならないのです。
お互いの好みやライフスタイルの違いに気が付いたとしても無視するのです。
長年連れ添った夫婦はお互いのことを熟知しているように思われていますが、果たしてそれほどの理解があるでしょうか。
その上、熟年になっての新たな出逢いではそうはゆきません。あまり期待し過ぎてはいけないのです。
二人で社交的に、かしこまって振舞うようにしていればいいのです。
あまり相手のことに立ち入りませんから嫌なことは無視できます。他人行儀にしていればこちらの趣味を押し付ける気も起きません。
それでいてちゃんとした夫婦なのですから表面的には穏やかです。
立派なオトナとしてお洒落をし、相手に対してはよそ行きの格好をし常によそ行きの態度でいることです。
要はお互いカッコをつけていることです。
そうすればあまり相手のことに立ち入ることはありません。好みやスタイルの違いが大きなお世話的なことはありません。
誰かに常に見られていると思って暮らすのです。
そうすれば相手への思いやりも保つことができ、結果としては妥協も押し付けもなく違いを受け容れるカタチになってくれるのです。