今回のタイトルの結論から言ってしまえば、「結婚前の反対意見にはよく耳を傾けよ。逆に結婚後の批判には耳を貸すな」ということになるでしょうか。
別な言い方をするなら、「結婚をしようとして反対されたらよく考え直せ、しかし後になってからの人からの批判や中傷は判断を誤らせるからむしろ聞かないほうが良い、人生は自分で決めろ」ということ。
よく、「周囲に結婚を反対されている」ということを聞くことがあります。
これから結婚しようとするカップルが周囲から反対される、どちらかが「相応しくない」あるいは「その相手には疑いがある」とされて結婚を反対されるというケースです。
そういう意見というのはよく聞いておくべきです。耳を貸すべきです。
親や周囲が結婚のお相手の資質について訝しがり、「これはよい結婚ではない」と結婚を反対されるという場合です。
最近ではあの元皇族の長女でもそんな話がありました(笑)。
こういう反対がある時、まず最初、その「周囲」というのはその結婚について何の利害関係もないものが普通です。
つまり、いきなりの「知らない人間」についてのことなのです。
その結婚するという相手とはすでに何らかの利益関係があるとか、対立があるなんて場合はとても少ないものです。
だからこそ、周囲は公正な意見をくれているのだと考えるべきです。
それには拝聴する値打ちがある。
結婚と言う決断には色んな観点も必要です。
ここは素直に聞くのが正解なことがほとんどです。
そういうことを一切聞かず、ただあの依怙地になったような皇族の長女、彼女の人生はこれからどうなるか分かりません。
しかし少なくとも、彼女にはこの先もずっと「祝福」というものはない。
哀れとしか言いようがありません。
ところが、これに対し、結婚後に起きる意見や批判となると話は別です。
周囲はすでにその人とは一定の関係ができていて、多かれ少なかれ付き合いがあるという人々です。
そこから飛び出す批判や「この結婚は失敗だったんではないか」と、まるで現在の結婚を疑わせるような言葉。
ここには多分に自分の利益や立場が反映されたものになっています。
つまりあまり頼りにはできません。
この違いが分からず、騙されてしまうと人生を誤ることになります。
周囲の人々、彼らは結局、自分の理解や立場から話しているからです。
こういうことを「ポジショントーク」と言ったりするものです。
我が国では近年、こういう言い方が極めて多くなりました。
どんな取るに足りない会話でもどんなに当たり障りのない場でも、常にそんな話が飛び出てくるようになりました。
その人にとって有利になるような言質しか与えようとしない。
人を自分の利益になるように言葉で操ろうとする。
昔はこういうことは「手前味噌」とか「我田引水」などと言われてきましたが、今は一般的には「ポジショントーク」と言います。
そしてそれはあまりにも多いものです。
イジメを放置した無責任な校長批判の議論をしている漠然とした会話の中で、ご自分の親族に校長がいるからと、まるで自分の領分を守るようにして支離滅裂な弁護をしだしたりする人がいます。
関係もないし誰も知らないのに。
まあ、これも「情報化」にまつわる弊害なのかも知れませんけれども(笑)。
さて、その「周囲」というのは、最初ならその新しい他人との人間関係を受け入れるのに戸惑うものです。
それは親族にしても知人にしてもそうです。
だからよくそその人物を判断しようとしたり調べたり、つまり客観性がある。
利害対立を動機としたものではありません。
だから、情報を収集して提供してくれます。
結婚前であれば、周囲というのは中立的な立場から判定しているのがほとんどです。
例えばその人の人となりについての印象であるとか、家族関係、経歴や職歴、現在の立場まで、その人と結ばれたとしたら幸福な結婚ができるか、とか、割と正確な予想と観測がされているものです。
そんな流れで、もし、「反対」というのがあった時には耳を貸す値打ちがあることも多いものです。
だいたい、周囲の人にとってはそんな降って沸いたような結婚話などほとんど関係がありません。
先だって見えない。
だから意外と正確で真摯な助言をくれるものなのです。
一方、結婚してしまってからのイチャモンというのは、もろもろが紹介され、よく周囲の知れることとなってからの批判や文句ということになります。
そして単なる噂話から人格否定に至るまで、実にかしましい。
昔なら、こういうことは親族間や知人のネタミとかソネミ、そして無責任な話として片付けられていました。
しかし今はみな情報過多に自分をつい見失いがちです。そうした他人の言葉や囁きにはココロがたやすく揺れてしまうものです。
挙句の果てには「アイツとは分かれたほうがいい」なんて話になっていたりします。
余計なおせっかい、余計な介入です。
だからと言って分かれた後の始末など誰もつけてはくれません。
こういう話というのは実に無責任なものです。
DVや不妊、不倫でも、どんなことがあろうが、もはや本来はお互いが解決すべきことなのです。
一度結ばれたものがそうそう別れるなどという話はない。
結婚してしまった以上はとことんやってゆくしかありません。
これまで一緒にやってきた二人なら、現在を修正し直してゆく方がどうしたって確実な道なのです。
ところが、決まってこういう周囲からの提言というものは安易な「破滅」へと進ませようとするものです。
ではなぜこういうことを云う周囲と言うのがいるのか。その疑問です。
それは「影響力の行使にはチカラを実感できるから。」と言うこと。
利害関係がある場合も多いですが、結局はそれが本質です。
まだ見ぬカップルの結婚の予定について、周囲が色々と言ってくれ、意見してくれるというのは情報の提供です。ただそれに過ぎません。
それは善意でもありますがしかし責任は伴わない。
情報を提供する側には情報の収集という喜びがあります。
そこに自己実現の満足感があります。他意はない。
だから聞くだけの値打ちはある。
もちろん、虚実織り交ぜてのことにはなるでしょうが判断の材料にはなります。
そして、聞くこちら側にしても、ある程度、助言とか雑音ということで距離を保っているものです。
ところが、結婚してしまった後、その生活に対して何かモノを言ってくる場合というのは全く違う動機からのことです。
それに注意すべきです。
それは人の生活や人生に介入して動かしたい、偉ぶりたい、権力を発揮したい、自分の利益になるようにしたい、そんな「自己実現」という欲求になります。
しかも、それは知人や親族としての立場、その責任を果たしているようなフリをしているだけにタチが悪いものです。
だいたい、冷静に考えれば分かるでしょうが、ご自身の結婚生活の反省もなしに、他人、それが身内にしても娘や息子にしても、その結婚生活についてケチをつけるというのは全くの悪意でしかないでしょう。
彼らは人の結婚生活を破綻させることでご自身の言い訳を立たせたいというのが本来の動機なのだと言えます。
しかも、結婚と言うこれまで暮らしてきた時間と事実があることを知りながら、これに影響を与えようとして何かを言おうというのですから、どれだけ不遜かといえましょう。
傲慢さしかありません。
こういう時は、責任のあるフリをしながら人々というのは実に無責任なものです。
ただ物事を覆してやろうという、実力行使の快感に酔いしれているだけと言う場合がほとんどです。
ご自身には反省はまるでなく、人の批判、攻撃、混ぜ返し、結局は自分のカタルシスや言い訳のためにその人の結婚生活に難癖をつけて悦に入っているというだけ。
そうして現在の不遇を誤魔化そうとしているというのが実体です。
なぜなら、そういうことを言う人たちのクチからは「解決策」など出てこないものですから分かるでしょう。
結局、「別れさせてやろう」という結論ありきでしかありません。
よって、結論から言えば「結婚前の反対には耳を傾け、結婚後の批判には耳を貸すな」ということです。
「結婚に失敗した」という離婚暦の話は、たいてい結婚後に誰何なく難癖や批判をされて、その圧力に屈して別れてしまったというケースが多いものです。
だからこそ離婚暦というのはキズになるのです。
それだけ人の影響を受けやすい人なら次の結婚もどうなるか分からない。
そうして、結局、彼らが別れた後には、誰からもケアはしてもらっていないというところ。
実体を見れば、それはただ、「別れされられた」というだけなのです。
結局、人の言葉に耳を貸すのも「頃合い」があるということです。
一族であっても親族であっても、親友であろうと他人は他人です。決して当事者ではない。
そういう周囲の人々のポジショントークの犠牲にならないようにしたいものです。
「自然な悪意」というのが世の中にはあるものです。
それはたいてい妙にご親切な見かけをしていますし、あなたに同情的に見えます。
ただ、それはあなたに後戻りできないことを勧めるほどに邪悪なのです。
実の親にしても、実の子にしてもそうです。彼らにどれだけ自己弁護の欲求が強いか、それは他人には想像を超えるものでしょう。
どれほどよい親であっても、そうした自己肯定欲求というのが生まれれば、息子や娘の幸福を願うことよりも必ず自分を際立たせようという欲求が勝ってしまうものなのです。
親や親友、親族は聖人君子ではありません。
気をつけたいものです。
2